1%の余白を残して 競歩
松永大介インタビュー (前編)

2023年9月23日の全日本実業団対抗陸上競技選手権大会で現役を引退した松永大介。攻めるレースで私たちを魅了し続けた松永選手に、これまでの競歩人生、これからの歩みをお聞きしました。

                                                                                                                                            (聞き手:富士通株式会社企業スポーツ推進室 柏原竜二)

現役最後のレースを終えて

柏原 月並みですが、引退してしばらく経ちますが、実感は湧きましたか?

松永 いやーそんなには実感ないですね。運動はしなくなりましたが、休みのちょっと延長みたいな感じです(笑)

2023年9月23日、男子10000m競歩を終えて

柏原 引退して1か月弱だけど、運動しないって、なんか気持ち悪くない?

松永 いつも試合が終わって、1週間ぐらいは動かないタイプなので、意外とその延長上にいるっていう感じですね。そのうち身体を動かすんだろうなって思いながら、まだ休んでるって感じです。

柏原 (報道)記事にもなったけど、母校の東洋大学の練習には、もう参加してるの?

松永 まだ、行ってはないです。

柏原 まずは、ここから富士通での業務が決まってから、正式に週末コーチにいくんだね。

松永 そうですね。女子競歩のアシスタントコーチなので、来年の4月から本格的になります。それまでは、長距離とか駅伝をお手伝いしていく形ですね。


「なんか面白そうだな」で始まった競歩人生

柏原 さて、今回のインタビューでは、松永選手のこれまでと、これからと、競歩に対する思いを聞いていこうと思っています。では早速、そもそも、なぜ、競歩を始めたの?

松永 競歩を始めたのは高校1年生の時で、母校の横浜高校は神奈川県の中でも強豪で、そこで初めて競歩という種目を見て、「なんか面白そうだな。」と感じました。

柏原 引っ掛かった具体的なポイントはどこなの?

松永 見たことない動きをしていて、言ってしまえば〝変〟じゃないですか。なんで制限かけてるんだろう?と(笑)

柏原 確かに、ただ歩くだけなのにね。

松永 なぜか練習を目で追ってしまう、面白そうだなーと思ったのが、始めるきっかけですね。

柏原 ほかの競技もある中で競歩を選んで、実際にやってみて、最初は、どんな気持ちだったの?

松永 中学時代は、基本は長距離でしたが、短距離とか跳躍も経験していました。でも競歩には、これまでの経験がまったく当てはまらない動きや、筋肉の使い方もあって、本当に未知の世界で、陸上をやっていたのに未知の世界で、物珍しさもあって本当に楽しかったですね。

柏原 今でこそ、日本の陸上競技界は競歩の活躍が目覚ましいけど、松永選手が始めた頃ってまだ、そこまでじゃないよね? よく、そこで競歩をやるって決めたね。

松永 そうですね。僕が高校3年生の時に、ロンドンで国際大会があって競歩にも数多くの日本代表選手が出場していましたが、そもそも自分自身が日本代表とかまったく考えていなかった競技レベルでしたし、日本の競技レベルがどんな感じなのかも知らなかったので、個人で関東大会に行けたらうれしいな、競技人口も少ないし、運よくいけたらいいな。という気持ちでやってました(笑)

柏原 関東大会に出るには、ちょっと穴場だと思ってたんだね(笑)

男子20㎞競歩で初入賞するまで

柏原 面白そうから初めて、28歳まで競技を続けることができたよね? どこで競歩にハマったの?

松永 競技をはじめてからは、わりとすぐですね。最初は、めちゃくちゃ遅かったんですよ。初大会の5000mWは28分ぐらいかかりました。そこから2~3か月経ち、もう一度、5000mWの試合に出たら27分台で、1分縮むって陸上にとっては大きいじゃないですか。そこから次の大会に出場するたびに、1分、また1分と縮まっていって、これだけ伸びてくると楽しいと思い始めました。

柏原 目に見えた成果だね!

松永 そこから秋の新人戦の地区大会で優勝、県大会でも優勝することができました。長距離をやっていたころは、周りがみんな本当に強くて、優勝するという経験があまりなかったので、競歩を始めて3か月ぐらいで関東大会に行けちゃったよ!と(笑)

柏原 そこから競歩にのめり込んでいって、東洋大学に進学するって決めた理由は?

松永 ひとつは駅伝が強いこと。そして、駅伝と一緒に強化していくというビジョンが大学にありました。自分の通っていた横浜高校もそうなんですが、駅伝のチームと一緒に行動することはメリットになる部分が多くて、競歩ブロックでいるよりも他のブロックと一緒にいた方が学ぶことが多いと感じていて、それが関東で叶えられるのが東洋大学だけでした。

柏原 東洋大学って私の母校でもあるので、あえてお聞きしますが、入学してから馴染むのに時間ってかかりました?

松永 かかりましたね。高校生のときと違って、大学は寮生活で、寮とキャンパスが近くて、朝練が終わって授業までの時間、結構空いてしまい、部屋に戻ると寝ちゃうことが多くて、いけないことなんですが、授業に遅刻してしまうことも多かったですね。とにかく授業と競技の両立が難しかった。競技の面でも、大学では歩く距離を伸ばしていかなきゃいけない。高校生の時は5000mが主戦場でしたが、それが50000mになって、10kmになり、そこから20kmになり、長い距離を歩くというのに馴染むのにも、なかなか時間がかかりましたね。

柏原 高校生の時に、20kmは歩かなかったの?

松永 高校3年の時に、神戸で行われる日本選手権で初めて20kmに挑戦しましたが、それ以外は10kmまでしか歩かなかったです。練習も少ないタイプだったので、長くても1日10km~12kmぐらいです。

東洋大学時代の練習風景(写真提供:松永大介)

柏原 東洋大学は朝が早いことで有名で、4時30分ぐらいに起床して5時過ぎには朝練が開始するじゃない?

松永 はい(笑)

柏原 そして、10km以上の練習がある。大変だったんじゃない?

松永 朝練から高校生の本練習以上のことをやる。とんでもないなと思ってました(笑)

柏原 1年目は本当に大変だったんだね。

松永 関東インカレや、全日本インカレは順位こそ4位は取れましたが、タイムは全然ダメで、高校時代のタイムは超えられなかったですね。

柏原 そんな中、在学中に、いくつかの国際大会に出たじゃない?どこが転換期だったの?

松永 転換期というか、段階的なことが多かったですね。大学1年生の12月に日本ジュニア記録を、当時、先輩の西塔拓己さんの持っていた記録を1分近く更新することができて、そこでようやく世界が見えて、日本のトップが見えてきました。翌年の2014年には世界ジュニア(米国・ユージーンで開催の世界ジュニア陸上競技選手権大会)もあって、うまく年代別で段階を踏んでいけたのが大きかったのかなと。

左)2015年9月、日本インカレ男子10000m競歩を大会新記録(当時)でゴール
右)2016年3月、全日本能美競歩男子20㎞競歩で優勝し、リオの日本代表に内定
(いずれも写真提供:共同通信社)

 

柏原 世界ジュニアの10000m競歩では金メダルを獲得して、2016年のリオで開催された国際大会では男子20km競歩で初入賞したのも含めて、当時どんな思いがあったの?

松永 当時は本当に〝挑戦する〟としか思ってなかったですね。思いはメダルを取ること。でもやっぱり、今まで戦ってきた選手たち、ライバルと違って、もう一段階高いレベルの選手たちと戦わなきゃいけない。ある意味怖いもの知らずの気持ちで先頭の方でガンガンレースを進めることができました。リオの国際大会に出場できて「ようやく、ここまできた」という思いもありましたが、「まだ、ここか」という思いもありました。

柏原 「まだ、ここか」なのは、凄いね。

富士通に入社して

柏原 いろんな経験を経て、富士通に入社してくれることになったじゃない? 富士通に入社する決め手になったのはどこだったの?

松永 富士通はもともと、競歩が強い。国内の実業団チームの中でも最強の一角という感じで、僕が高校時代に見ていた競歩も、日本代表には富士通の選手が全員出てるみたいな。

柏原 そうだったね。2012年のロンドンは、川﨑 真裕美さん、大利 久美さん、森岡 紘一朗さん、鈴木 雄介さん、富士通の競歩陣、全員出てたね(笑)

松永 国内最強のチームというのもあって、大学に入学した時も酒井俊幸監督から「実業団行くなら、どこに行きたい?」と聞かれて、その時からずっと「富士通に行きたいです」と言っていました。富士通には今村文男コーチがいるのが大きかったですね。それと、将来的にも社業にも触れていきたいという思いもあって、いろんなことを考えても富士通以外の選択肢はなかったですね。

柏原 覚悟を持って富士通に入社したんだね。

松永 そうですね。

柏原 富士通に入社してから、決して順風満帆ではなかったと思うんだけど、改めて振り返ってもらって、競歩人生どうでしたか?

松永 んーーー、正直、やっぱり苦しかった思い出の方が多いですかね(笑) 2020年の国際大会の日本代表選考会で落選して以降、少し休む形になりましたし、思い描いたところには辿り着かなかったなと。でも、メダルって誰でも取れるわけでもなく、最終的に引退する形になりましたけど、去年のオレゴンの世界選手権で代表になることもできました。

富士通での練習風景(写真提供:松永大介)

 

松永 順風満帆でもなかった、目標まで届ききらなかったのはありますが、それでも富士通に入ることができて本当に良かったです。富士通でやりたい競技ができたのかな。と思ってます。

柏原 富士通では、どのあたりからケガをしたの?

松永 2018年のホクレン10000m競歩で日本記録を出した後ぐらいからお尻の筋肉がうまく使えなくなってきて、梨状筋症候群というケガだと発覚して、その年の冬からうまく歩けなくなってきて、練習しても足にうまく力が入らない状況になり、それを引き摺ったまま2019年になってしまい、2020の国際大会もあるとわかっていたので、休めなかった。

2019年に無理に身体を動かしてしまい、レース中の途中棄権もかなり増えてしまい、2019年度のレースはほとんどフィニッシュできてないですね。

2020年2月、日本選手権男子20km競歩

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