それぞれのゴール、新たなるスタート
~今年度引退アスリートが語る(全3回)~
岸本 鷹幸(一般種目ブロック)
東京都町田市にある法政大学の多摩キャンパス。東京で開催される世界選手権の直前だった2025年9月7日、嵐の前の静けさのはずの競技場に大勢の人が集まっていた。世界選手権を控える日本代表選手たちの姿もある。1人の偉大なハードラーの最後を見届けようと集まった。これも人徳だろう。
男子400mハードルの岸本鷹幸(富士通)、35歳。練習でも、記録会でも、何度走ったかわからない母校のトラックに、10台のハードルが並ぶ。長く、濃かったハードル人生の最後のトラック1周。先輩、後輩、恩師、お世話になった人たちに見守られてスパイクを脱いだ。
「ゴールできるかな、と思って走りました。54秒62ですから、ベストから5、6秒も遅い。長かったですよ。よく、こんな長い距離を走っていたなって」
そう言って笑った。
2012年ロンドン国際大会代表で世界選手権には5度出場のレジェンドは、2025年8月に現役引退を表明した。現役最後のレースに選んだのが、発表から1ヵ月ほど経った母校の法大記録会だった。
「やり尽くしたという気持ちが大きいです。競技者として、これ以上の幸せなことはないと思います」
涙はなく、みんな笑顔があふれていた。
■ 遊ぶ姿を見た先生から勧められたハードル
青森県むつ市出身。運動神経は良かったが「とにかくチームスポーツが苦手」だった小学校時代に、母から「陸上なら1人で走るだけだよ」と勧められて陸上部に入った。最初は短距離選手。ハードルに初めて触れたのは中学になってから。顧問の先生に勧められたそうで、「公園や試合会場で、いろんなところを跳び越えて遊んでいる姿を見て『110mハードルをやってみたらどうか』と言われました」と、驚きのエピソードを明かす。
「小学生の時に友人が練習で転んでいる姿も見ていたので、怖い種目という認識です。なんでハードルを跳び越えないといけないんだろうって。最初は嫌々でした」
ひょんなことから、長いハードル人生の幕が開けた。恐る恐る出場した最初のレースで、100mでは達成できなかった人生初の“一番”になり、「やってみたい」と心変わり。「まさか人生の半分以上も付き合うとは思っていませんでした」と当時のことを思い返す。
大湊高に進学すると、その才能が開花した。と言っても、それが400mハードルだったのは想定外の出来事だった。110mハードルと、サブ種目として走幅跳(※自己ベスト7m13を持つ)に取り組んだが、インターハイ県大会での学校対抗のポイント狙いというのもあって、400mハードルにエントリーされていた。
「絶対にやめてくれって思っていました。400mのフラットレースも走ったことがなかったですし、マイルリレー(4×400mリレ)さえ出たくないと思っていました」
心には「110mハードルの選手だという自負」があり、サブ種目の走幅跳と400mハードルの間には「超えられない壁」があるほどの位置づけだった。
そもそも、ハードル間を3歩で行く110mハードルとは異なり、トラック1周400mで10台のハードルが並ぶレースで、どんな歩数で行けばいいのかもわからなかった。先輩にアドバイスを求めると、「13歩で行けばいいよ」と返ってきた。
「わかりました!って練習で13歩を使って走ってみたのですが……。行けるわけないですよね。最後はバウンディングみたいになっていました」
13歩は日本のトップ選手が使っている歩数。先輩もそれを知って冗談で言ったのだが、高校1年生の岸本がそれを知る由もない。たとえ「バウンディング」であっても初心者ができるものではなく、ここにその才能の一端があった。
実際に最初の試合でも13歩に挑戦し、5台目まで走ったという。「先輩たちは大笑いしていましたよ」。最後はへろへろになって、67秒かけてフィニッシュにたどり着いた。
「不思議なもので、最初に挑戦した13歩で途中まで行くというのは、私が結果を出すようになって追い求めてきた歩数とまったく一緒なんです」
奇しくも、大学以降も競技を続けることになったきっかけもまた、この「13歩」だった。
■ 大学3年目に飛躍を遂げて世界選手権出場

400mハードルが図らずもメイン種目になると、高2の国民体育大会(国体、現・国民スポーツ大会)で2位となり、日本ユース選手権で優勝。3年時にはインターハイ、日本ジュニア選手権、国体と日本一のタイトルを総なめにした。記録も当時の高校歴代4位となる50秒17まで短縮している。
「110mハードルを横目に見てかっこいいなって思っていましたが、身長170㎝の私では勝負できないなと思っているの事実でした。走幅跳などをやっていたこともあり、巧緻性が求められる400mハードルは向いていたと思います」
ただ、日本一を経験しても、「世界」や「日本代表」といったことは「考えていなかった」。そもそも、陸上で大学に進学するとは「一切思っていなかった」。ただ、高2の時の岸本の走りに惚れ込んだのが、法大の苅部俊二監督だった。自身も400mハードルで活躍し、富士通所属だった1996年アトランタの国際大会にも出場。その苅部監督が「内側のレーンで軽く走って13歩を使えていた。そんな選手はなかなかいないので衝撃的だった」目に留めて声をかけた。
2009年、晴れて法大に進学したが、そのレベルの高さに驚き、「こんなすごいところに自分がいていいのか」と何度も思ったという。「苅部監督や先輩、仲間に恵まれました」。日本代表選手を輩出し続ける名門とあって、練習からレベルが高く、ついて行くのに必死だった。
「苅部さんについていけばいいだろう、というくらいで、練習の中身や意図はまったく考えられていなかった」と振り返るが、持ち前のポテンシャルと練習量で結果が出たのは大学3年目だった。5月の静岡国際で49秒27をマーク。当時の国内トップタイムに「まさかあんなタイムが出ると思わなくて、どうしたらいいんだろう? って」。ただ、走りとしては「それまでと違って、初めてきれいに400mハードルを走れました。苦しくなかったんです」。高校の最初に走った5台目までの13歩で、一気に飛躍を遂げた。日本選手権でも初優勝し、同年のテグ世界選手権代表にも選出される。
「日本選手権は勝ってしまった、という思いでした。49秒28はレベルが低かったので、せめて48秒台を出したかったと強く感じたのを覚えています」
世界選手権では準決勝に進出。日本インカレもきっちり制した。この頃から「強い先輩方をたくさん見てきたので、世界大会を常に意識するようになりました。先輩たちの日々の過ごし方から参考にすることが多かったです」と言うように、日本を代表するハードラーの自覚が芽生えていく。
■ ロンドン大会代表となり強豪・富士通へ
2012年は、静岡国際で初の49秒切りとなる48秒88をマークし、日本選手権では日本歴代5位(当時)の48秒41をマークして連覇を達成。順風満帆のキャリアだったが、この後は長くケガとの付き合いにもなっていく。
「忘れもしません。日本代表の事前合宿を山梨でやっていたのですが、そこで左脚を肉離れしました。フランクフルト(ドイツ)での合宿中で、少しずつは良くなったのですが、もう一度同じ場所を痛めました」
ロンドンで開催された国際大会に初出場。「ちゃんと走れないことはわかっていた」が、棄権する選択肢はなかった。左脚にはテープをグルグル巻きにしてスタートラインへ。「痛いのを我慢すれば走れる」と腹を括って号砲に合わせてスターティングブロックを蹴ったが、「スタートから出た瞬間にもう一度痛めました」。何とかフィニッシュにたどり着き、倒れ込んだ。
「今思えば、身体が限界を超えていたと思います。合宿に入ってから練習を積んでも、一気にタイムが上がるわけではないのに、そこで休む選択ができませんでした。休んでいれば違った結果が出ていたかもしれません。決勝に残るチャンスもあったと思いますし、47秒台も出せた自信も少しあります」。後悔ではないが、この悔しさと反省が消えることは生涯ないだろう。

大学卒業後は、こちらも陸上界きっての強豪チーム・富士通に入社する。「あこがれでしたし、まさか自分が入れるとは思っていませんでした。富士通はスーパースター集団で、テレビで活躍している人たちの集まり。“トップアイドルの事務所”というイメージでした」。かつては伊東浩司や恩師の苅部監督も現役時代を過ごし、当時は髙平慎士や塚原直貴といったトップスプリンターが在籍していた。
「初めてユニフォームを着た時は違和感がありました」
1年目に日本選手権3連覇を果たし、モスクワ世界選手権代表に。「今だから言えますが、調子が良くなくて、48秒台が出せないのはわかっていたのです。運良く準決勝に行けましたが、そこまででした」。攻めた結果、脚がハードルを越えないと判定されて失格となった。
実は、これも引退した今だからこそ明かせる秘密がある。「モスクワ以降は、スタート前の最後の練習時間でハードルを跳びませんでした。この選手は失格候補だ、と目をつけられないように」といたずらっぽく笑った。
■ 徐々に芽生えた社会人選手としての自覚

14年は日本選手権の連勝を4に伸ばし、仁川での国際大会で銀メダル。次の年には北京世界選手権でも代表入りした。しかし、当初はプロ意識が欠けていたのではないかと振り返る。
「練習環境が変わらなかったこともあって、気持ちの切り替えが追いつきませんでした。自分がどういう環境にいるのかも理解できていなくて、学生の延長で続けてしまっていたと思います。社会人として、お金をいただいて競技をしているという意識はかなり低かったです」
ましてや、日本代表になるのが“当たり前”のようなスーパースター軍団。実業団とは言えプロフェッショナルな選手たちが集まっていただけに、その意識の違いを感じていたという。
ここからキャリア終盤まではケガとの隣り合わせ。むしろ、ケガをしていた時間のほうが長かったかもしれない。
「日本選手権は『勝つだけ』になってしまって、モヤモヤ感がずっとありました。48秒台を追いかけ過ぎたんだと思います。もう少し身体の土台を作ってから取り組むべきだったと今は思います」
練習量は今の若手が真似できないほどで、高負荷のスピード練習もいとわなかった。間近にいた日本代表の先輩たちもまた、同じようにこなしていたため「当たり前のレベルが高かった」。そこから、さらに質を高めようとしたが、類い稀なスピードは諸刃の剣となる。ハムストリングスの肉離れは数えられないほど。アキレス腱痛や足底炎、坐骨の腱の断裂などとは長い付き合いになってしまった。
前年にリオ国際大会の参加標準記録を突破した状態で迎えた16年の日本選手権だったが、大会直前の肉離れの影響で途中棄権。2大会連続出場はならなかった。
ケガが続き、日本代表にもなれず。少しずつ岸本の中で心境が変化していく。「会社からしたら必要のない選手だと思われていると理解していました。試合に出場できない且つ業務もこなしていませんから」。リオ国際大会を逃した頃から、会社に「もう少し仕事の量を増やしてもらえないか」と掛け合った。「リハビリをしているだけの期間は時間も余しているので」。競技面で貢献できていないことや、セカンドキャリアを考えてのことでもあった。それでも職場(当時の富士通多摩支店)は競技に打ち込めるようにと、業務の配慮と心からの応援をしてくれた。
「社会人としての競技は2、3年頑張って辞めるつもりだった」ところから、13年も現役生活を送ることになる。「こんなに長く続けるとは思っていなかったですね」。引退も考えたが、ある1人の先輩からの言葉に救われた。
国際大会出場を逃したが、これまでの実績と功績を考慮して会社としては現役続行をサポートしてくれると言ってくれた。「髙平さんに相談しました。そうしたら、『続けられる環境があるなら、やればいい。必要とされなくなったら辞めたらいいんじゃないか』と言ってもらえました。引退の考えとして、それも“アリ”だなって」。気持ちが軽くなった。
時を同じくして、世代交代も進んで富士通の中でも、陸上界の中でもベテランの域に入っていく。
「髙平さん、塚原さんをはじめとするスター選手がいた時は先輩たちについて行けばいいだけでした。でも、上の立場になっていくにつれて、『このままじゃまずい』という気持ちが芽生えました」
16年に塚原が、17年に髙平が引退。「世界でメダルを取ってきた人たちが抜け、自分がしっかりしないといけない、と思いました。私はメダリストではありませんが、何としても“富士通ブランド”を守りたかったです。私が勝手に意識していたことですけど……」。富士通は学生時代にあこがれた“スーパースター軍団”でなくてはいけない。メダルには届かなかったが、何度も復活した姿、国内で必ずトップ争いするしぶとさに、その思いが表れていた。
■ ケガに苦しみ、そして復活
17年はアキレス腱の痛みに悩まされて日本選手権を欠場。レース前のウォーミングアップ中に抱えていた爆弾が爆発した。それでも、18年には復活して日本選手権を3年ぶりに優勝。ジャカルタでの国際大会代表にも選ばれた。

印象的だったのは国体での無類の強さ。春先に調子が悪くても、必ず『青森』のユニフォームを着た岸本が、最後の直線で追い込んで来る。「冬季にケガをして、秋の国体くらいに調子が上がってくるんです」と苦笑いするが、青森チームにとってその存在は大きかった。
19年以降は日本代表からしばらく遠ざかったが、会社は「気が済むまでやればいい」と後押ししてくれた。ただ、アキレス腱と足底の痛みはなかなか治まらなかった。そんな時に献身的にサポートしてくれたのが妻だった。
「寝返りを打って布団に足が引っかかっただけで痛みもあって起き上がるくらいの状態でした。練習はおろか、日常生活もできないくらいです」
タイムも50秒台前後でしか出せず「走れるだけで奇跡だと思っていた」。アスレティックス・トレーナーでもある妻の懸命なケアの甲斐あって、21年東京の国際大会イヤーの日本選手権で3位に舞い戻った。前2人からは離れたが、岸本らしい粘りで最後にスッと3番手に入ったのは意地だった。「実は喘息の発作が出ていて、ドクターストップがかかっていました。でも、『これが国際大会の最後のチャンスだから』と懇願して、ドクターにフィニッシュ地点にいてもらったくらいでした」。
この日本選手権3位は、一つのターニングポイントになる。「レベルは低いですが、家族や会社に少しは恩返しができました」。神様が「もう少しやれ」と言っているような奇跡的なメダル。「もう割り切りました」と、ボロボロになるまで走り抜くことを決めた。
世界大会の出場条件も変わり、参加標準記録からポイント制による「ワールドランキング」が採用された。「若い時と同じ身体を目指すのは難しくても、違ったかたちでタイムと上げて、タイムの安定感を出していこう」。競技を続ける以上は、「もう一度日本代表へ」という希望が見えてきた。
取り組みも大きく変えていく。以前は「とにかく走って身体を作る」という方向性から、「ウエイトトレーニングや体幹トレーニングの割合を増やしました」。ウエイトトレーニングも、「狙いやフォームをしっかり意識」していくと、明らかに身体が変わっていくのがわかった。
「こんなに違うアプローチもあるのか、と。もっと早くから意識しておけば、怪我の予防にも繋がり、48秒台は安定させられたと思います。この経験は後輩たちに伝えていかないといけないと感じています」
新たな走りを手に入れると、驚異的な復活劇を遂げる。ワールドランキングで上位選手が棄権したことによる世界陸連(WA)の招待枠だったとはいえ、22年オレゴン、23年ブダペストと2大会連続で世界選手権代表に返り咲いた。
「自分でも驚きでした。最後の最後でインビテーションが来たのですが、本当にうれしかったです。アメリカの聖地・ヘイワードフィールドのあるオレゴンには現役選手として一度は行ってみたいと思っていました」
若い頃は世界大会で「結果を出さないといけない」と意気込み過ぎていたが、最後の2大会は「変な気負いもなかったです。これも今だから、の話ですが、力不足なのは理解していましたし、戦えないことは自分が一番理解していました。代表選考ルールの上で勝ち取って得た代表権なので、ご褒美だと思って楽しもうと思えたんです」。オレゴンの予選では、同大会で金メダルを獲得するアリソン・ドス・サントス(ブラジル)と同組に。「ドス・サントスより内側のレーンだったので、間近で世界一の走りを見ました。バックストレートで、向こうはジョギングのような力感で走るんです。こっちは全力なのに・・・」。突き放されたが、日の丸を背負い、世界を肌で感じられる時間がこの上なく幸せだった。
ブダペストには、法大の後輩2人と代表入り。自分の経験を伝えつつ、ウォーミングアップエリアでは海外選手の動きをじっくりと観察した。将来のことを考えてでもあった。「海外の選手は力技で、動作も適当なのかと思っていましたが、むしろ逆でした。すごく丁寧に身体を作っているのを感じました。もともと体格の差がある相手が、これだけ丁寧に試合に向けた準備をするんだから、それは勝てないよな、と痛感しました」。勢いで挑んだ若き日の世界大会も、ベテランとなって違う視線で見た世界大会も、大きな財産になる。
■ 仕事は「走るよりも大変」
引退を考えたのは24年の春だった。パリの国際大会を目指す過程で重要な一戦だった5月の静岡国際を前に体調不良になる。「病み上がりの状態でボロボロです」。もう勝負できる状態まではいけない――。追い込んだ結果の体調不良。「これ以上、練習量を落としては勝負できない。守っても仕方ないので潮時だと思いました。そろそろ働かないとまずいな、と。富士通陸上競技部の先輩(スーパースター選手の一人)でもあり、職場の上司でもある田野中マネージャーからも『現実』を常に示して頂いていました。現役時代も理解はしていましたが、引退した今だから、田野中さんの言葉一つ一つに「本当に心配している」という思いが詰まっていたと理解できます」。
東京世界選手権も翌年に控えていたことと、「もうひと冬だけやってみたい取り組みがあった」と、もう1年現役を続けることを決めた。妻に「もう辞めてもいい?」と聞くと「いいよ、お疲れさま」と一言だけ。そこに温かさがあった。7歳と2歳の子どもたちにも「支えになりました」と感謝している。会社、そして恩師の苅部監督にも「あと1年でダメならすっぱり辞めます」と伝えた。
最後の1年はトレーニングをさらに極めていき、実際に身体は出来上がった。が、「走りにつなげることはできませんでした」。日本選手権に間に合わず、50秒も切れなかった。引退を表明してからは、地元・青森で国スポのために新装されたスタジアムと、慣れ親しんだ母校の2本を“ラストレース”に定めた。
「会社には、よくこんなに長い間、面倒を見てくれたな、と思います。何かで恩返ししないとまずいですよね」
昨年5月から通常の社員と同じように勤務し、現在は官庁第三事業部・第二ビジネス部に在籍。「とても大変です。覚えることも多く、もともと物覚えも良くないので、職場に迷惑ばかりかけています・・・。さすがに競技よりは楽だろうと思っていましたが、いやいや、走るほうが楽でしたね」と苦笑い。「知識をつけて、自分で業務をこなせるようになった時、私の本領が発揮されると思うので、15年分の遅れを取り戻せるように頑張ります」。
体型や顔つきはほとんど変わらないが、表情は戦いの場から離れ、少しだけ穏やかにも見える。「普段は業務の都合もあり、身体は全く動かしていないのですが、週末には母校に顔を出していますよ」。社業に精を出しながらも、「少しでも経験を伝えられれば」と陸上の現場にも足を運ぶという。今では「仕事として走ることの意識の大切さ」を後輩たちにこんこんと伝える日々だ。苅部監督が「本当に素直で、厳しい練習を文句一つ言わない面倒見も良い模範のような選手です」と言うのだから、会社でもきっと重宝される。
「富士通にはいつまでもアイドルみたいなチームでいてほしいと思います。陸上の試合があれば、いつでも富士通のユニフォームを着た選手がいるように。私の苦い経験であれば、いくらでも共有します」。
日本選手権は4連覇を含めて5度制した。「運が良かっただけです。今は非常にハイレベルなので、後輩たちに『生まれる時代を間違えたな』と言っています」。そう言って謙遜するが、日本のお家芸だった400mハードルが停滞しかけた時期に、岸本が頭角を現わした功績は計り知れない。
嫌々ながら始めたハードル人生で、伝統あるスーパースター集団として数々の金字塔を刻んだ。「後悔はまったくないですね」。誰からも愛されたハードラーは、最後まで“らしさ”を貫いて激動の競技人生を終えた。

(月刊陸上競技編集部 向永拓史)
