それぞれのゴール、新たなるスタート
~今年度引退アスリートが語る(全3回)~
岡田 久美子(競歩ブロック)
2025年9月の世界陸上競技選手権東京大会を最後に、現役を引退した岡田久美子。競技生活の集大成となった富士通陸上競技部での4年間をはじめ、10年以上にわたって日本女子競歩代表として世界の舞台で戦い続けた競技人生を振り返った。
■30歳で富士通移籍、集大成の4年間
岡田が富士通に加入したのは、22年4月。前所属のビックカメラ陸上部が21年東京後に廃部となり、新たな所属先を探していた中、同年10月に富士通競歩ブロックの森岡紘一朗コーチと結婚し、2人で今後について相談を重ねた。「残りの競技人生をそんなに何十年もやるわけではなかったので、最終章として(競歩の)専門性が高い、伝統のある富士通で最後は頑張ってみたい」と決意し、移籍を願い出た形だ。

ビックカメラでは個人でサポートを受け、練習も基本的には1人で行っていた。一方、新天地となった富士通には、男子20km世界記録保持者(当時)の鈴木雄介、16年リオデジャネイロ男子50kmで銅メダルを獲得した荒井広宙、同大会20km7位入賞の松永大介、日本選手権20kmを6度制した高橋英輝ら、日本を代表するトップウォーカーが多数在籍しており、「競争率の高い環境の中で、自分が世界で戦うためにはどうしたらいいかというのを本当にもう 1回真剣に考えられるような環境でした。そばで見てくださるコーチ陣もたくさんいて、種目問わず色んな方から情報をいただいて、強化につなげることができたというのはすごく魅力的でした」と、加入当時の感銘を振り返る。
また、以前はそれぞれの活動拠点で離れて生活していた森岡コーチと夫婦で一緒に暮らし始めたことも、競技面での追い風となった。『今日は眠れなかったよ』とか、『お腹が痛い』『食欲がない』とか、そういった細かな体調や精神面の管理もしてもらえました。一般的なコーチとの関係だと、なかなか言いづらかったり我慢してしまったりすることもあったと思いますが、そばにいることで素直に自分の体調を報告できました」。年齢的にも30歳の節目を迎えていた岡田にとって、コーチであり夫でもある森岡の存在は大きな支えとなった。

移籍1年目のオレゴン世界選手権に20kmで4度目の出場を果たすと、23年4月には長距離種目の35kmに初挑戦し、2時間44分11秒の日本新記録を樹立。「(8月の)ブダペスト世界選手権で入賞、あわよくばメダルを目指していけるような手応えを感じた」。ところが、大会を目前に突然の悲劇に見舞われた。日本からブダペストに向けて出発する当日に、腰椎捻挫(ぎっくり腰)を発症。「自分自身の最大のピークを発揮したい気持ちが強いあまりに、自分の体と向き合うことが足りていませんでした。体のダメージを度外視して、練習をやりたいという気持ちが先走ってしまったんだと思います」。そのまま13時間のフライトを経て現地入りしたものの、痛みは治まらず、無念の欠場を余儀なくされた。
失意の帰国後も症状はなかなか改善に向かわず、11月の半ば頃まで腰や首に痛みが残る状態が続いた。翌年にパリで行われる国際大会の代表選考会となる日本選手権20kmが残り3か月と迫る中、活路を開いたのは、トレーナーを通じて触れた解剖学との出会いだった。「人間そもそもの骨格や筋肉の機能などを私自身もちょっと勉強して、それに取り組んでいく中で、少しずつ体の歪みや姿勢が改善されていったんです。ずっと悩んでいた痛みが取れて、良い歩きが少しずつできるようになってきました」。それでも調整不足の不安が残る中で迎えた年明けの元旦競歩では、女子10kmの日本新記録となる42分46秒をマークして優勝を飾り、「えっ!と思いもよらない記録が出て、『あっ、これでパリも行けるかもしれない』と、そこで初めて明るい気持ちになれました」。現役引退も頭をよぎり、両親を沿道に呼んだという悲壮な決意を持って臨んだレースは、パリへ向けて最大の分岐点となった。

2月の日本選手権20kmではパリ国際大会参加標準記録を突破する好タイムで2位に入ると、4月の世界競歩チーム選手権(トルコ・アンタルヤ)では、男女2人が交互に2度ずつ歩く混合リレー(42・195km)で銀メダルを獲得。2種目でパリの出場権を手にした中で、本番では混合リレー1種目に専念することを決めた。
その決断を後押ししたのは、世界チーム選手権で味わった「先頭の景色」の感動だった。最終区間はトップで2度目のスタートを切り、「駅伝でも先頭でたすきをもらうと、あれよあれよと良い記録で走ることってあるじゃないですか。あれと同じような気持ちになった。先頭に向けての応援がやっぱりすごくて、(気分が)ハイになって気持ちよく歩けました」。1種目専念は日本代表チーム全体の方針でもあったが、岡田自身も「本気でメダルを取りに行くために、1種目にした方がいい」と覚悟を持って決断した。
8月のパリでは、ペアを組んだ川野将虎(旭化成)が歩型違反の警告を2度受け、チームとしてあと1度警告を受けるとペナルティーゾーンで3分間の待機を強いられるピンチに陥り、ペースダウン。岡田は入賞ラインぎりぎりの8位で最終区間へと歩き出した。この緊迫の展開で、岡田が強みとしてきた「競技人生で一度も失格がない」という美しいフォームの真価が発揮された。猛追してくる後続の選手たちとの差を冷静に見極めながら、アップダウンや石畳がある難コースでも歩型を乱すことなくレースを進め、「最後は失格しないようにと祈るような気持ちもありながら、自信を持って歩ききれました」。自身3度目の挑戦となったで悲願の初入賞を果たし、「メダルはもちろん欲しかったので悔しさはありましたが、自分のベストは尽くせました」と胸を張った。
集大成と位置づけたパリを完全燃焼で終えた後は、約3か月にわたって「抜け殻状態」という日々を過ごしていた。それでも、時間の経過とともに「次は東京(世界選手権)かぁ。家族や親族、お世話になった人たちが見ているところで最後を迎えることができたら幸せかな」と、競技続行への思いがふつふつと湧いてきた。11月頃になって本格的に気持ちのスイッチが入ると、25年2月の日本選手権20kmでは、このレースで岡田自身が保持していた日本記録を更新した藤井菜々子(エディオン)に中盤で突き放されたものの、粘り強い歩きで自身のセカンドベストとなる1時間28分17秒をマーク。世界選手権の参加標準記録を突破して2位に入り、自身6度目の世界選手権代表入りをたぐり寄せた。

現役最後のレースと決意を固めて迎えた、9月の世界選手権。国立競技場を発着点として明治神宮外苑の外周を往復するコースには、約20年にわたる競歩選手としてのキャリアを通じて見たこともなかった景色が広がっていた。沿道に二重三重の人垣が切れ目なく並び、どこまでも続く大声援を浴び、「本当に日本国内の大会?って思うぐらい、ビックリしました。同窓会みたいな感じで、小学生の頃から社会人まで各世代で仲が良かった子、先輩、後輩が応援してくれて、本当に楽しかったです」。同じ自国開催だった4年前の東京での国際大会は原則無観客開催で寂しい思いを味わっていただけに、感慨はひとしおだった。
レースは気温が涼しくなった影響で想定外の高速ペースとなり、5km通過のタイムを見て「これ以上行ったら、もうダメだ」と冷静に判断し、先頭集団から離れて自分のペースでレースを展開。終盤は入賞も厳しい状況となったことから、「最後の1周だけ、なるべく応援してくれる人の顔を見て歩いた」。ゴール地点の競技場内に入る直前には、沿道から「これまでありがとう」という感謝の声がかけられ、「頑張れとかファイトという声かけはたくさんいただいてきましたが、『ありがとう』という言葉は初めてでした。もう涙腺が崩壊してしまって、呼吸ができないぐらい泣きながら最後のトラックを歩きました」。最後は笑顔を浮かべながら、18位でゴール。その直後には、日本女子競歩初のメダル獲得となる3位でフィニッシュしていた藤井から「岡田さんのおかげでメダルが取れました」という言葉とともに首へ銅メダルがかけられ、2人で号泣しながら抱き合った。
東京世界選手権のレースから約2か月後の11月27日、正式に現役引退を発表した。「競技人生の最後はどんな形であれ、力を出し尽くしたいと思っていました。やりきったかな、という思いです」と語る岡田に対し、夫婦二人三脚で挑戦を支えた森岡コーチは「ほとんどのアスリートが志半ばで競技を去ることが多い中で、やっぱり(岡田が)やりきったと思えたことが、送り出す側としても本当によかった」と、万感の思いをかみ締めた。
■日本女子競歩の歴史をつないだ、11年間の代表キャリア
岡田は埼玉・熊谷女子高2年時に出場した2008年世界ジュニア選手権(現U20世界選手権)女子10000m競歩で8位入賞、2年後の同大会では銀メダルに輝くなど、学生時代から世界の舞台で活躍してきた。シニアにカテゴリーが上がって以降も、世界選手権で6度の代表入りを果たすなど、長きにわたって日の丸を背負い、日本女子競歩界を引っ張ってきた。その歩みについて、岡田自身は「順風満帆に思われるかもしれないけど、そんなことはなかった」と、実感を込めて振り返る。
立教大学からビックカメラに入社して1年目の15年日本選手権20kmで初優勝し、同年の世界選手権北京大会で自身初のシニア日本代表入りを果たした当時、日本女子競歩界は過渡期を迎えていた。12年ロンドンでの国際大会に出場した3選手のうち、富士通に所属していた川崎真裕美と大利久美が13年に現役を引退。当時女子20km日本記録保持者の渕瀬真寿美(現建装工業)も故障続きで低迷し、北京大会の女子代表は岡田1人だけだった。「出場が決まった時は、『やったー、代表だ!』という気持ちがありましたが、ここから先、どう練習したらいいんだろうとか、代表合宿はどうすればいいんだろうとか、本当に何も分からない状況でした」。合宿では大勢の男子代表の中に1人交じり、見よう見まねで1日のスケジュールをこなしながら、体作りや食事に関する知識などを懸命に吸収した。
かたや男子競歩陣は当時、急成長期を迎えていた。15年に鈴木雄介が20kmの世界新記録を樹立し、北京世界選手権50kmでは谷井孝行(現自衛隊体育学校監督)が日本競歩界初の世界主要大会メダルとなる「銅」を獲得。16年リオの50kmでは荒井広宙が日本競歩史上初の銅メダルに輝き、一気に国際大会での表彰台常連国へと躍進した。一方の女子は、リオ大会や17年のロンドン世界選手権、18年のジャカルタでの国際大会でも岡田が唯一の代表という状況が続き、「チームジャパンとしては(男子の活躍が)すごく誇らしく思っていましたが、私には代表で競う相手や女子の先輩、コーチもいないという中で、どうやったら世界のトップに近づけるのか、すごく考えて悩んだ時期でした」。国際大会に出場はできても、メダルや入賞争いに絡めず、世界との距離がどんどんと離れていくような感覚にさいなまれていた。
そんな状況を打開するターニングポイントとなったのが、19年だった。6月にスペインで行われた国際グランプリ女子20kmで、当時の日本記録を10年ぶりに更新する1時間27分41秒をマーク。勢いそのままに9月のドーハ世界選手権では6位に入り、シニアの世界大会では自身初となる悲願の入賞を果たした。
このブレイクスルーを導く要因となったのが、18年春に福岡・北九州市立高校から実業団のエディオンに加入し、めきめきと頭角を現してきた藤井菜々子の存在だ。19年2月の日本選手権20kmでは岡田と1分29秒差の2位と躍進し、ドーハ世界選手権の代表切符を掴んだ。岡田は当時の心境について、「藤井さんは見るからにポテンシャルが高くて、強い気持ちを持っている子でした。『これは簡単に負けられないぞ』と、お尻に火をつけてもらいました」と明かす。ドーハに向かう過程では藤井からの希望を受け、夏場は長期間にわたる合同合宿で練習や寝食をともにした。打診を受けた当初は、「私も若かったので、一緒に練習することですぐに負けちゃうという危機感が強かったです」といい、合同合宿には及び腰だったという。それでも、周囲から「抜かれるという不安はもちろん分かるけど、ここで藤井と一緒にできたら絶対に岡田も成長するよ」と説得を受け、共闘を決断。練習から切磋琢磨してともに力を伸ばすと、レース本番では2人で交互に前を引っ張り合って好ペースを維持し、岡田が6位、藤井が7位で続いて日本女子競歩初のダブル入賞を達成した。「2人同時の入賞という快挙で、報道でも沢山取り上げていただきました。今でもやっぱり一番うれしかった思い出です」
飛躍を導いたもう一つの要因が、本格的なフィジカルトレーニングの導入だ。積年の課題だった後半の失速を克服するため、パーソナルトレーナーと契約。猫背の改善や筋量が少ない部位の強化に着手。「後半崩れていく姿勢を維持する筋力をつけることができて、日本記録を出したレースも後半の方が速かったんです。そういった部分で、大きく飛躍できたと思います」。19年日本選手権20kmで一緒にレースを歩く機会を得たリオデジャネイロ金メダリストの劉虹(リュウ・ホン)を参考に、骨盤を前傾させるフォーム作りにも取り組み、そうした自己変革の積み重ねが日本記録と世界選手権初入賞を呼び込んだ。

現役最後のレースとなった東京世界選手権を終えた直後、岡田は「世界のトップで戦えるような素質があるかと聞かれると、そうでもないと思います。」と意外な自己評価を口にした。「海外の選手や藤井さんは非常に恵まれた骨格をしていて、頭が小さくて手足が長くて、縦に伸びるような筋肉を持っていますが、私はそのような骨格は持ち合わせていなかった」。そうしたコンプレックスを抱えながら、それでも11年間にわたって日本の第一人者として世界の舞台を歩き続けられた理由を問われ、「人とは違った努力をした」ときっぱり答えた。
「どんなに競歩に向いている選手でも、私生活で悪い姿勢でずっとテレビを見てたり横になってたりしていたら、良い練習はできないと思います。日頃の生活でできることはたくさんあるので」。姿勢が悪くならないように、食事やデスクワークは傾斜がある椅子に座って行うなど、解剖学の知識を基に日常生活の細部までこだわった。また、若手の頃から管理栄養士のサポートを受けて食事改善に取り組み、厳しい自己節制を続けてきたことが、34歳まで高いパフォーマンスを保ち続ける原動力となった。だからこそ、「本当に色んな人に支えられて、ここまで来た競技人生でした」と、キャリアの節目節目で自身の飛躍や復活を導いてくれた多くの出会いに心から感謝する。
引退後のセカンドキャリアについては、新年度から指導者として活動することが決まっている。基本的には実業団選手へのマンツーマンでの指導にあたりつつ、母校・立教大学をはじめとした学生たちへのアドバイスも惜しまないつもりだ。
その一方で、所属先の垣根を越えて、女子選手を集めた合宿や練習会を積極的に開催していくことも考えている。その背景にあるのは、ただ1人で女子日本代表を背負った15~18年の4年間の苦しかった経験だ。「あの時に誰か女性のコーチや代表経験者の方がそばにいてほしかったという思いは、正直あります。そうした寂しさや不安を感じる時期というのは、すごくもったいない。本当に気軽に先輩みたいな感じで選手に寄り添い、相談したりコミュニケーションを取ったりできるようなコーチを目指したいんです」と思い描いている。
先導者から、伴走者へ。日本女子のレジェンドウォーカーの挑戦はこれからも続く。

(読売新聞東京本社運動部・西口大地)
