中間地点―
2019年から2023年までの道のり
マラソン 中村匠吾インタビュー (後編)

2019年9月15日、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で優勝を決めた中村匠吾。東京で開催される国際大会に向けて、2013年からマラソンに向けて本格的な準備を始め、ようやく手にした日本代表内定。しかし、その後、世界は一変する。あれから数年たち、再びマラソンのスタートラインに立った中村選手に、これまでのこと、これからのことをお聞きしました。

(聞き手:富士通株式会社企業スポーツ推進室 柏原竜二)

 

■ チームメイトの日本記録樹立

柏原 2021年は、出場を回避した3月のびわ湖で鈴木健吾選手が日本記録を樹立しましたが、どうでしたか?

中村 うーん、あの感じはなんと表現したらいいのか・・・。テレビを見ていたら2時間4分台か、と。自分が出場できなかったので、ちょっとは凹みました。ただ、健吾がすごくいい練習をしていたのは見ていたので、結果としては(いい記録は)出ると思っていましたので、実はそこまでは驚いてなかった。そこよりも、自分自身への葛藤が大きかったですね。

柏原 葛藤への対処法はどうしていたの? 僕の場合は、壁にタオルとか投げつけているんだけど(笑)

中村 何もないです。当時は、外にも出られませんし、当たるものがなかったのが良くなかったですかね。

柏原 同じチームメイトでも葛藤は、なかなか言えないもんね。そして、世間から、日本記録をだした鈴木健吾選手を国際大会に出場させろという言葉もはいってくるしね。決められた選考基準のMGCを頑張ったのに良い気はしないよね。

中村 SNSにも「代表を変わってください」と書き込まれましたね。もちろん、健吾の頑張りの世間の評価はすごかったから、自分でも、どうしたらいいだろうってなりました。

柏原 そうかぁ・・・世間の声も悪気なく言ってくるのもあるから、受け取った側として、気持ちをどう整理していいか分からなくなるんだよね。僕だったら、ひたすらムカついていたかも(笑)

 

■ 日本代表であり続けること

柏原 ケガも治らない、開催まで時間がない、刻々と時間が過ぎていく、苦しかったんじゃない?

中村 苦しかったですね。練習ができていれば前向きになれたと思います。でも、2021年3月の段階でも本当に国際大会が開催されるのかわからない状況だったので、準備していったことが8月に報われるのかというのがわからない状況は、キツかったですね。

柏原 どうして、そんな中で最終的に出場しようと思ったの?だって、辛いじゃん。いっぱい批判されて、出場しても批判されるじゃん。

中村 やっぱり、「この国際大会を目標にして、自分は何年かけてやってきたのか?」を考えると、出場したいというのが一番の思いでした。本当に苦しかった。でも、練習をやらない日はなかった。どんなにキツくても。朝起きて朝練もしますし。

柏原 えらいよ。

中村 そのまま(目標に)向かってやれているし、みんなが認めてくれるなら(MGCを)勝ち取った権利として出るべきなのかな?と。逆に、国際大会じゃなかったら、ほかの大会だったら出たのか?と言われたら、わからないですね。

柏原 自分が望んで出ようと思った大会なんだね。

中村 苦しくて、どんな形になるかわからなかったですけど、形として残すべきなのかな、と。

柏原 マラソンのゴール後、「想像を絶するものだった」というコメントを言っていたと思うんだけど、改めてあの本質はなんだったと思う?

中村 自分自身のケガで苦しかったっていうのもありますし、コロナ禍で大会延期になって、応援してくれていた人たちが本当に開催を望んでいたのかどうか賛否両論があることを考えたときに、答えがわからなかったというのもありますね。

柏原 悩んで、悩み抜いて、でも走って嫌だった?それとも、よかった?

中村 いちアスリートとしては良かったですね。結果は良くなかったんですけど、完走できたことはひとつ形になりました。出場は小さい頃からの夢だったので、叶ったという意味ではよかったです。

柏原 実は、大会終了後に福嶋さんに「なんで中村を出場させたんですか?」と聞いたことがあってね。福嶋さんは「俺は止められなかった」と言っていたよ。

中村 福嶋さんも悩んでいたと思います。もちろん、大八木さんも。でも、「本人が出るなら俺たちはサポートする」と言ってもらえたので、その言葉で自分も腹をくくる覚悟ができました。

柏原 福嶋さんをはじめ、陸上競技部の良さだね。もちろん、自分で処理しなきゃいけない、整理しなきゃいけない部分もあるけど。

 

■ 国際大会を終えて

柏原 自分が一番に目指していた国際大会が終わったじゃない?裏を返すと目標がなくなる訳だよね。でも、またなぜ走ろうと思ったの?

中村 終わってから9月中旬まで、1か月、まったく走りませんでした。完全休養。あえて陸上から離れる時間が必要だと思っていたので。

柏原 たった1か月なの?

中村 逆に結果が悪かったからこそ、もう一回やろうと思えました。アスリートとして不完全燃焼で、東京の世界陸上(2025年)まではもう一回頑張ろうと自然と思えました。

柏原 小さな欲で立ち上がったんだね(笑) すごいね。俺だったらやめてやると思う。でも、立ち上がった要因は結果が悪かっただけじゃないと思うんだよね。

中村 もちろん、批判の声もありました。だけど、一方でたくさんのポジティブなコメントも届きました。職場に行けば「見てたよ、頑張ったね。お疲れ様」という声をかけてもらって、やっぱり応援してくれる人は身近にたくさんいるんだなと改めて実感することができました。国際大会に向かうまでの過程でも、大八木さんをはじめ、富士通陸上部が親身になって寄り添ってくれたからこそ、そこまで辿り着けました。だからこそ、もう一回何かを返さなきゃいけないという思いが強く出てきました。

柏原 そして、大会終了後にもう一つ大きな決断をしたよね?

中村 11月に結婚もあって。もう一度、何かを変えたいと思って練習拠点を駒澤大学から富士通陸上競技部のある千葉に移す決断をしました。

柏原 大八木さんにその旨を伝えたときは何か言われた?

中村 言われましたね。来年のオレゴン(世界選手権)まで一緒にやらないか?と。言ってもらえたのはすごく嬉しかったですし、プラスにもなると思っていました。ただ、このまま大学に残っていたら、自分の中で中途半端で終わっていた可能性もあるかなとも感じて、一つの節目だと思って、変えるならここだなというタイミングだった。大八木さんに気持ちを伝えたら「応援する、何かあったらいつでも連絡してこい」と言ってくれました。いまでも連絡を取っています。

 

■ さらなる故障と、MGC再挑戦

柏原 2020年から続いていたケガの具合は?

中村 しっかり休んで治すことができました。千葉に来てから変にやる気になって、急に身体が動いたんですよね(笑) 10月から12月は本当にいい練習ができて、福嶋さんからは「もう一回4区、行ってくれないか?」と言われて、2022年のニューイヤー駅伝を走りました。ただ、レースの途中から凄く足が痛くなって、終わってから病院に行ったら腓骨の疲労骨折をしていたのが分かって、残りの15㎞もその状態で走っていたから、回復が遅くなってしまいました。

柏原 わかるよ。逆に調子がいいときほどケガになりやすいというか。身体がフル稼働しちゃう感じ。実際、走れるようになったのは?

中村 2022年11月ぐらいですね。愛知県に高校時代から通っている治療院があって、その先生に診てもらったら、ようやく走れるようになりました。福嶋さんと相談して半年間、治療しながら走れるようにと、千葉から三重にしばらく練習拠点を変える決断もしました。

柏原 今秋のMGCを目指して、2023年3月の東京マラソン、5月のプラハマラソンにもチャレンジしたじゃない? ケガもあるし、万全な体調ではなかったと思うけど。

中村 次を目指すなら2024年の国際大会だという気持ちはありました。ただ、故障でうまくいかない。5月31日という、MGCの出場権を獲得する期限は刻々と迫ってきているわけで、逆算すると東京とプラハしか残っていなかった。

柏原 焦りはなかった?

中村 練習ができるようになってからの方が、時間が限られているから焦りましたね。練習の消化具合で自分がどれだけ走れるのか?なんとなくわかってしまうので。

柏原 継続して練習していれば、より、早くマラソン練習に移行できるけど、そのための準備期間も必要で、普通は6か月ぐらいのスパンが必要だもんね。

中村 そうですね。2年間まともに練習ができていない状況からのスタートだったので、負荷がかけられない。

柏原 それでも3月の東京マラソンにでたよね?

中村 マラソン2本で2時間10分切りを目標に目指してやってきましたが、実際に東京を走ってみたら、もう少しかかるかな、と。想定より動かなくなってしまい、2時間12分かかってしまって。

柏原 東京からプラハまでの時はどうだったの?

中村 正直、もう一回挑戦するべきなのかと、プラハに出場するのは迷いました。2時間7分台、自己ベストを更新しなくてはいけないので。そして、東京からプラハまで2か月間で自己ベストを更新する練習ができるかどうか?と言われたら、ちょっと厳しいかなと2週間ぐらい悩みました。でも、ここで出場しなかったら後悔するなと思って。どんな形になってもやれるだけのことはやろう挑戦しようと。

柏原 1%でも可能性にかけるのはアスリートとして良い決断だと思う。

中村 練習も、プラハに向けてのほうが、2019年のMGC前と遜色ない練習ができていました。でも、マラソンは継続性は大事で、試合からしばらく遠ざかった状態で東京を全力で走ったので、ダメージが大きかった。それが、プラハまで引きずってしまった。

柏原 結果はMGCの出場権を逃したかたちになったけど、プラハが終わった直後はどうだった?

中村 これでMGCダメだったなぁ、と落ち込みましたが、半分は覚悟していたので、やれることをやって臨んだ結果なので、わりとスッキリしていました。

柏原 まだ、来年に向けてはファイナルチャレンジもあるけど、ひとまず、この夏の過ごし方は? 初めてのMGCの優勝経験者でもあるからこそ、頼られることも増えてくると思う。また、そこで中村選手自身も気が付く点も増えてくると思うんだけど、どうかな?

中村 現状、今はチームのマラソン組と一緒に行動できていなくて、あまり合流できていませんが、福嶋さんから既に(一緒にやるぞと)言われていて、今年は全日程チームに帯同して練習を消化することになると思います。自分ひとりがいることで何か変わるかと言われれば、大きく変化はしないと思います。でも、普段と違う相乗効果がたくさん生まれると思うので、私自身にとってもチームにとってもプラスになればいいなと思います。それと、MGCに出場する選手たちを純粋に応援していきたい。

 

■ これから

柏原 中村選手も中堅の域にきたけど今後のアスリート、人生のキャリアをどう考えているの?

中村 もちろん、来年に向けて、ファイナルチャレンジにも挑戦します。そして、2025世界選手権が東京にきます。そのあたりまでは、やれるだけやりたいですね。ここまでやってきたから将来的には指導者になれればいいかなとも考えていますし、陸上界にプラスになるようなことをやっていきたい。その為にも今回のMGC出場権を取れなかったことを、幅を広げるための良いきっかけになればと思っています。初心に戻って夏を過ごして、トラックレースにもでて半年かけてやれることをやれたらと考えています。

柏原 今度は全体を大八木さんみたいな立場で物事を見なきゃいけないね。

中村 今までは自分第一だったので、もっと視野を広げて競技に取り組めればと思います。まず第一はケガをしないことですね(笑)

柏原 この5月体調不良だったもんね(笑)

中村 やるからにはトップレベルまで戻るきっかけを作れたらいいなと。

柏原 そこまで、気負わなくてもいいのかなと僕は思っています。ファンは中村選手が走っていることがうれしいのよ。中村選手が苦労しているのはみんな理解していて、今日のインタビューも世の中に中村選手の生の声をお届けできていないと思って(笑)

中村 ははは(笑)

柏原 それもライターも呼ばず、僕が担当することになっているところに、本当に生の声を届けたいという想いがあって(笑) 中村選手がどんな決断をしようが、みんなは応援してくれるよ。では最後に、改めて、応援してくれている皆様にコメントをいただけますか。

中村 応援していただけるのは嬉しいです。いつでも、どんな結果でも暖かく迎え入れてくれる場所があるのはありがたいですし、大切なことと思っています。選手としては結果としてこたえていきたいですね。


中村選手の近況(2023年6月下旬撮影:手前は浦野選手)


 

聞き手:柏原竜二プロフィール

1989年7月13日 福島県いわき市生まれ。2012年から富士通陸上競技部にて活動し、2017年3月末で現役引退。現在は同社 企業スポーツ推進室のプロモーショングループに所属。スポーツ活動全般への支援、地域・社会貢献活動などを担当し、幅広く活動している。

 

前編

中村 匠吾 – 陸上競技部 – Fujitsu Sports ; 富士通