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2019年から2023年までの道のり
マラソン 中村匠吾インタビュー (前編)

2019年9月15日、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で優勝を決めた中村匠吾。東京で開催される国際大会に向けて、2013年からマラソンに向けて本格的な準備を始め、ようやく手にした日本代表内定。しかし、その後、世界は一変する。あれから数年たち、再びマラソンのスタートラインに立った中村選手に、これまでのこと、これからのことをお聞きしました。

(聞き手:富士通株式会社企業スポーツ推進室 柏原竜二)


■ 2019年を振り返る

柏原 最近、暑くなってきたけど、体調はどう?

中村 実は、5月7日のプラハマラソンのあと、少し体調を崩して、5月は、ほとんど練習できませんでした(笑)

柏原 張り詰めていた気が緩んだかな。プラハマラソンまで頑張ったもんね。

中村 気が緩みましたね(笑) 6月に入ってからようやく練習を再開しました。

柏原 さて、ここからが本題。2019年のMGCから2020年に向けてと、国際大会の1年延期を経て、2023年のプラハマラソンまで、中村匠吾選手はどんな競技生活を送っていたのか。改めて聞きたい。まず、富士通に所属しながら、駒澤大学を練習拠点に選択した理由は?

中村 そうですね。2015年に富士通に入社した時に国際大会への出場をひとつの大きな目標として掲げてやりたいと陸上競技部の福嶋さん(現総監督)にお願いして、母校の駒澤大学を練習拠点として活動させてもらいました。

マラソンをやっていく決断をした理由は2013年に国際大会の招致が決まったことと、同時期にMGC開催の発表があって、目標としては掲げやすかったのかなと、今振り返ると思います。大八木(当時駒澤大学陸上競技部監督、現総監督)さんと話をしてマラソンで大会出場を本気で目指すなら、環境はそのままが良いよね、という方向になって、私自身も大八木さんの練習メニューで競技力が伸びてきた自覚もあり、それに加え藤田(敦史、現駒澤大学陸上競技部監督)さんなどの、マラソンで成功した選手の練習メニューを大八木さんが持っている(組み立てた)強みが大きかった。大八木さんとやってきた大学4年間で信じてやっていけると感じていた。そこで、富士通にお願いをして、大学を拠点にすることを認めてもらいながら、入社後も練習を続けることができました。

柏原 気になることがあるんだけど、大八木さんは当時、駒澤大学陸上競技部の監督でもあり、中村と学生を両方見なきゃいけない。そこに対するモヤモヤとした気持ちとかなかったの?

中村 ゼロではないですね。もちろん、学生優先というのは理解はしているんですが、私も選手なんで、もうちょっと見てほしいという気持ちはありました(笑) ただ、富士通でやると決めたのは、福嶋さん、吉川さん(陸上競技部スタッフ)の存在っていうのも大きかったです。合宿とかにも帯同してくれて、不安はなかったですね。

柏原 福嶋さん、吉川さん、大八木さんの関係値が良かったんだね。

中村 そうですね。時には大八木さんとの間に立って会話してもらうこともありました。そのおかげで国際大会まで、すごく活動しやすかったですね。

柏原 MGCの大会が近づいてきたときの心境はどうだったの?大会当日、我々社員一同は富士通の汐留本社を拠点に応援していました。

中村 翌年の国際大会に出たいという気持ちがすごく強くて、ここで代表になれなかったらどうなっちゃうんだろう?という不安はありました。また、初めての一発選考で注目度が高いMGCだったので、そこで勝ちたい気持ちが強かったですね。ただ、そこまでの過程は順風満帆ではなくて、2019年5月にケガというか、小さな故障が2回ぐらいあって、予定通りの練習が組めなかったので、多少の不安はありました。でも大会1週間前、急に調子が上向いてきたので、もしかしたら、勝てるんじゃないか?という思いはありました。

柏原 上向いた要因は何だったの?

中村 何が良かったのかは正直、今でもわからないです。ただ、ケガが治って8月からアメリカ合宿に行ったんですが、そこで順調に練習をこなすことができました。帰国してからは菅平高原(長野県)で調整して、もともと高地トレーニングは自分の身体に合っていることがわかっていたので、うまく高地を活用してトレーニングができました。


■ MGC大会当日

柏原 「これで、代表になれなかったらどうしよう?」と思っていたぐらいだから当日を迎えるまでは不安だったんだよね? スタート前はどうだった?

中村 不安は大きかったですね。

柏原 MGCは、どのマラソン大会よりも異様な空気だった? 見ている側は、熱気とはまた違う何かがあると想像していたんだけど。

中村 そうですね。でも、やっぱり当日は良い意味で自分自身のことに集中できたなと思います。沿道からの声援も含め、すごい舞台でした。自分がやるべきことを本当に集中して当日、スタート地点に立てました。あと、箱根駅伝も注目度が高いレースなので、MGCと箱根駅伝は雰囲気が近かったので、場馴れもあったんだと思います。

柏原 そうか、異様な雰囲気は大学時代から慣れているか。

中村 雰囲気にのまれて緊張というより、自分の結果はどうかな?の方が強かったですね。

柏原 そんな中、レースは最初から設楽悠太選手(当時Honda)が最初から飛びだしたよね?どんな気持ちだった?意表を突かれた感じ?

中村 もともと、設楽選手が最初から飛び出すんじゃないか?という噂話はあって、誰も付いていかなかったことに驚きました。もし、あの場面で、もうひとり付いていく人がいたら、自分も周りの選手たちも行っていたと思います。

柏原 そこで代表選考2枠の考え方になるんだね。目指すものは1位か2位の代表内定であって、MGCを優勝することが絶対じゃないもんね。

中村 そうですね。

柏原 ところで、試合を振り返ると途中で嘔吐しちゃったよね。あの時は何が起きていたの?

中村 途中で胃がムカムカしてきちゃって。実は2018年のベルリンマラソンでも同じようなことが起きていて、でもMGCの時は自己ベストで走っていたので、「まあ、大丈夫か」という気持ちでした。

柏原 普通、嘔吐したら胃痙攣とか起きて走れないと思うんだけど。

中村 逆にすっきりしましたね。溜まっていたものが全部出た感じです(笑)

柏原 我々富士通社員は銀座から新橋あたりで応援していたけど、わかった?

中村 わかりました!タオルってすごく目立ちますね。

柏原 レースは激戦だったけど、優勝したじゃない。そこからほとんど寝ずにメディアにいっぱい出ていたよね。大変だった?

中村 日本代表に内定したという嬉しさもあり、その日はずっとそのテンションでいられたので大変ではなかったです。でも、気が抜けたときにちょっと体調崩しました(笑)

柏原 でも、メディアを含め世間に注目され続ける雰囲気が、その後も国際大会に向けて続いていくじゃない。毎日、中村匠吾の姿をテレビで見たよ(笑)

中村 最初の数か月はそこまで声をかけられることはなかったです。ある意味、自分でも声をかけられることを楽しめていたところはありました。

柏原 だけど、いよいよ、おかしいぞ?というのは、いつぐらいから思い始めた?

中村 一番、大変だったのはコロナ禍になってからですね。


■ コロナ禍で

柏原 2020年1月ぐらいからかな。国際大会の開催がどうなるのか分からなくなってきた時期だもんね。その頃は何をしていたの?

中村 2020年は富士通がニューイヤー駅伝に出場できなかった年だったので、1月は高根沢町(栃木県)の元気あっぷハーフマラソン大会に出場して、自己ベストが更新できて、そのあと世界ハーフマラソン(ポーランド)も走る予定だったのでアメリカ合宿に1か月行きました。アメリカにいるときに、日本の新型コロナウィルスの感染者数がどんどん増えていく状況を知り、不安のまま帰国しました。

柏原 国際大会が1年延期になって、コロナ禍ではあるけど、日本代表として準備しなきゃいけない。心の持ちようって大変だったと思うんだけど、どうだった?

中村 その年、2020年に国際大会がある前提で準備していましたが、新型コロナウィルスの特徴や感染拡大の状況がどんな感じになのかなど、当時はわからないことが多かった。コロナに対する不安もありましたし、大会開催の是非についても葛藤はありました。

柏原 前代未聞のことだったし、誰も答えられないもんね。

中村 そうですね。開催延期は2020年3月ぐらいに決まりましたが、スケジュールを組みなおす時に、そもそも試合があるかわからない。「緊急事態宣言の時に練習していいのか?」という思いもありましたし・・・。

柏原 そうか、アスリートとしての、そもそもの生活リズムが崩れちゃったのか。そりゃ練習量も落ちるよね。

中村 公園が封鎖され、ほかの利用者を不安にさせてしまうので、公共施設の使用を控えていたこともありましたが、まったく練習ができないというほどまでは、練習量は落とさないようにしました。ただ、本来あるべき練習はできませんでした。

柏原 あの当時はスポーツ自体の是非が標的になっていたね。それも、ネガティブな。SNSにもそんな声が届き始める。

中村 「この状況で出場するのか?」「辞退してください」とか。

柏原 SNSの声は、自分だけじゃなくて出場が決まっていた人全員に送られていたとしても、受け取った側は頭の片隅に残っちゃうんだよね。

中村 気にしないと思っていても、いい気はしないですよね。

柏原 一部の意見だと思っていても〝その一部〟がどれだけ存在しているかわからない。


■ 2020年のケガ、2021年のケガ

柏原 人の身体って素直でさ、やりきれない思いが続くと身体が動かなくなってくるんだよね。

中村 そうですね。結果的にケガをしました。でも、これは自己管理の責任でもある。だけど、予定通りに開催されていたら、と思ってしまう自分もいました。

柏原 具体的には?

中村 開催されるかわからない、ケガもして走れない。じゃあなにしよう?と思ったときに戸惑いはありました。

柏原 アスリートとして、自分たちがやらなきゃいけないことができなくなるというのは、ちょっと生きた心地はしないよね。

中村 走るということが仕事であるとは思っているので、「走るなよ」と言われてしまうと、じゃあどうしたらいいんだろう、と自問自答する部分は正直ありました。難しかったですね。

柏原 ケガは何か所だったの?

中村 2か所ですね。1つ目は腓骨筋。いつもだったら走らず早く治そうと思うんですが、自分自身もそうですし、大八木さんにも焦りがあって、走りながら治そうという方向になりました。日本陸連からも、日本代表として、本番の国際大会の前にある程度試合には出て走ってほしいという要望もあって、出られるときに出ておきたい気持ちになってしまったというのもあります。先々、ケガの治りが遅くなってしまうので、今振り返ると、そこがミスでしたね。

柏原 中村選手も含め、走る、走らない、に関しては、色んな人の思惑があったんだね。その後は?

中村 2021年ニューイヤー駅伝を優勝するまでは順調でしたが、4区を走った後、疲れが抜けない感じが3週間続いて、練習量を落としていました。駅伝後は3月のびわ湖マラソンに出場する予定になっていて、1本走っておかなきゃいけないと思い、練習を再開したんですが、1月末にケガをしました。

柏原 駅伝が終わって、知らぬ間に身体とココロが悲鳴を上げていたんだね。コロナ禍で出場できる大会も少なかったもんね。

中村 この年はホクレン・ディスタンスチャレンジを(マラソンの)調整で出場、あとは東日本実業団駅伝、ニューイヤー駅伝で走ったくらいでしたね。

柏原 世の中的にはスポーツでみんなを元気にしたいという思いもあるし、走れることの喜び、感謝も人一倍、感じていたと思うし頑張りすぎたんだね。みんながそうだから。たしかに、2021年のニューイヤー駅伝、面白かったもん。

中村 ははは(笑)

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