ちょっとでも“速く”を追求する自分らしさ
田中佑美(100mH)

2026年9月の世界選手権では、アキレス腱の痛みを抱えながら走り切った。
「今やめたらもうちょっと速く走れる可能性があるのにもったいないな」
その思いが、再び自分の身体と向き合うモチベーションになっている。
いついかなるときも田中佑美は自分らしさを忘れず
2026年度シーズンも、気楽に楽しく乗り越えていく。

■アキレス腱に痛みを抱えながら走った世界選手権

——2025年度シーズンを振り返ってください。
「2024年にパリで行われた国際大会は、ランキングによってぎりぎりで出場権を得たこともあり、2025年は世界選手権(東京)の参加標準記録(12秒73)を切ることを最低限の目標として入ったシーズンでした。結果として日本選手権で優勝し、勝負に勝てたことは大きかった一方、記録がついてきませんでした。4月の織田記念までは自分のコンディションが噛み合わず、その後は日本選手権決勝当日の朝からアキレス腱に痛みが出て、世界選手権にも出られるか分からない状況でした。世界選手権は試合の1週間前くらいに『もうやるしかない』と思い、久しぶりにスパイクを履いてハードルを跳び、とりあえずスタートラインに立てることだけを確認してレースに向かいました」

——アキレス腱を痛めたことは、今までもありましたか。
「初めて痛くなったのは大学4年生です。実業団に入ってからは痛みを上手にコントロールしながらやってきました。2023年にブダペストで、初めて世界選手権の代表になったときくらいからはほぼ痛みがなくやれていましたが、久しぶりに痛みが戻ってきた感じです。試合を走ってからの痛みで、悪い走りをしたわけでもなかったので、なぜ痛みが出たのか分からなかったのも困った点でした」

——夏の間は、世界選手権の代表争いでライバルの記録も気にしつつ、自分はレースに出られなかった。どんな心境でしたか。
「日本選手権後、世界選手権に向けて合宿を計画して、実際に合宿地にも行ったのですが、行ってもできることがないというもどかしさがありました。ドクターにも助けてもらいましたが、痛みが分かりやすく改善することはありませんでした。歩くだけで痛かったので、バイクとウェイトトレーニングを中心にして、今までで身体だけは一番大きくなっていました。その間にも試合がかなりの頻度であったので、自分が走るわけでもないのに試合に向けて緊張して、レースを見るか見ないかで悩むようなことを何度も繰り返していました」

——結果的に世界選手権の出場が決まり、大会に向かう心境はいかがでしたか。
「私はネガティブとポジティブの両方があるタイプです。自分がベストだと思えるトレーニングを積めたわけではなかったけど、できることはやってきたし、もしかしたら何か起こるかもしれないと、試合自体を楽しもうと思っていました。一方で公には詳細をあまり報告していなかったので、『頑張ってください』と言われても、『やれることはやってきた』『新しいアプローチをしました』と回答してきました。嘘ではないのですが、苦し紛れだなと思いながら答えていました」

——世界選手権に出場して感じたことは。
「思ったより走れたことと、ちゃんと悔しいなと思えたので、それは良かったと思います。私はもともと、東京だからとか、国際大会だからとか、インターハイだからとか、そういうところが大事な選手ではないので、東京の世界選手権が盛り上がったというのは終わってから客観的に見て気づいた感じです。自分としてはパリやブダペストと同じく、そのときにできる走りをして、その先に何がついてくるかにはあまり興味がなかったです」



■立ち返る原点は、自分がなぜ競技をしたいのか

——現在、アキレス腱の状態はどうですか?
「シーズンが終わってから衝撃波治療をしっかり行って一度痛みは引いたのですが、シーズン直前になってもう一度痛みが出てきました。アキレス腱のケガは突発的な原因ではなく、走り方や歩き方が原因になっているので、炎症が落ち着いてもいつでも痛みや損傷を繰り返します。そのことと闘っていますね」

——アキレス腱の痛みを改善するには、動き自体を変える必要がありますか。
「以前に動きを変えて3〜4年間は痛みがなくなった経験があるので、変えたはずなのにまたケガをしてしまったのが衝撃的でした。今は、当時とは違う方向で何かできないかというアプローチを継続中です。もともとアキレス腱の硬さがあって足首が強いタイプだったので、そこだけの反動で走っていた部分がありました。それをできるだけ膝や股関節など上の部分に持っていって、つま先から突っ込んでいく動きをやめようという取り組みをしています。膝が内側でつま先が外側になる歪みがあったので、それをまっすぐにしようとリハビリをしている感じです」

——女子100mハードルは近年、日本のレベルが上がっています。ライバルの存在は気にしますか。
「他の人のことを考えるとあまり幸せになることがないので、気にせず自分のことに集中したいです。自分がなぜ競技をしたいのかに立ち返ったときに、他人の要素はあまり入ってこなかったので、自分のやりたいように競技できたらと思っています。自分が続けている理由は、今やめたらもうちょっと速く走れる可能性があるのにもったいないな、というのが一番ですね」

——今考えている、ご自身の伸び代は?
「股関節の動かし方や、広背筋をちゃんと稼働させることです。課題の入り口はどちらもアキレス腱の痛みを改善しようとしたところが大きかったかもしれないです。アキレス腱の負荷を減らすために、『代償動作はどこで起きているんだろう』『ここにかかる重力を減らすためにどこかで身体を支えられないか』というところを探しました。自分でどうこうというより、周りの人に助けていただくことが多いので、ドクター、トレーナー、コーチ、他の選手にも話を聞きながら課題を見つけてきた感じです」

 

■目標は「気楽に楽しく乗り越えられたら」

——競技以外のこともお伺いします。オフは陸上教室や学生への指導を毎年やられていますね。
「陸上教室はできるだけやっていきたいです。できれば毎年違う地域を回れたらと思っています。オフはメディア露出をたくさんするというよりは、自分の興味がある陸上のところをメインに活動していくほうが自分にはいいと思っています。いろんな都市を回りたいのは、自分は大阪府の都会のほうの出身で、チャンスに恵まれてきましたが、地方を回るとトップアスリートに触れる機会がない子どもたちをたくさん見ることがあったからです。学生は毎年入れ替わるので、できるだけいろんな都市を回って、いろんな都道府県の子どもたちや学生と交流することが、現役アスリートの自分が今できることかなと思います。富士通としても競技普及や陸上教室には関心があるところですし、会社を介して依頼をいただくこともあるので、積極的に取り組んでいる分野ですね」

——田中選手自身も学生時代にトップ選手から指導を受けた経験はありますか。
「陸上とは関係ないですが、小学生のときにJリーグのガンバ大阪の選手が小学校に来たことがありました。それでサッカーに興味を持ったわけではないですが、トップ選手を間近で見たことは、小学生ながら記憶に残っています。何をしたかは覚えてないけど、小学生時代の出会いとして覚えていることを聞かれたときに出てくるくらいには記憶に残っているので、それは大事だなと思います。小学生だけでなく、高校生や大学生の陸上教室もやることがあって、真剣な悩みを持っている子も多いです。大学生だと人生を迷っているような子もいます。私も立命館大学の女子陸上部で、チームでやってきて、悩んでいる選手が身近にいました。悩みを持っている選手のために、今後一生会うか会わないか分からない距離感の第三者の大人として、陸上界では前を走っている選手として、何か話をするだけで変わることもあるかなと思います」

——2025年12月にはヘアドネーションを公表されました。
「ヘアドネーション自体はもともといつかできたらいいなと思っていて、知識として知っていました。黒髪大賞特別賞を柳谷本店さんからいただいて、会社のことを調べていたら、ヘアドネーションを支援していることを知りました。髪も長かったので次はどうしようかなと思っていたときに、今がいいタイミングだと思いました。ヘアドネーションは31cmないとできないのですが、そのときも結構髪が長くて切ろうかなと思っていました。ただ、31cm切ってしまうとショートとも言えない短さになるので、もう一踏ん張り頑張って伸ばそうと思ったのがきっかけです。興味をもったきっかけに特別なエピソードがあるわけではなくて、自分に余裕があっていいことができるならしたほうが良いかな、という軽い感じです。自分も役に立った気がするし、誰にも迷惑かけないし、誰か幸せになるし、高い目標があってというより、自分も他人も幸せになるっていいことだねと思ってしました」

——今年の目標は?
「目標は毎年あってないような感じなので、ちょっとでも速くというところは変わらず、そのときできる手札を上手に使っていければと思いますね。分かりやすい大会として今年愛知で行われる国際大会が一つあります。記録を出すことも大会の選考の一つに関わってくると思うので、大会を出場を狙う中で記録も狙っていきたいですが、シーズンとしての目標は気楽に楽しく乗り越えられたらと思います」

——競技面で、今後の中長期的な目標を教えてください
「予定は常に未定です。他の選手が続けているから30歳を超えても頑張ろうというモチベーションはないです。次のシーズンや冬季にやりたいことがあって、トレーニングが積めて、もうちょっと速くなりそうだったらやる。それに加えて、スポンサーの方々や企業の方々、応援してくださる方々のことを考えながらやりたいと思っています」
(取材・文=加藤秀彬/朝日新聞社)