それぞれのゴール、新たなるスタート
~今年度引退アスリートが語る(全3回)~
中村 匠吾(長距離ブロック)
2026年3月末をもって現役を引退する中村匠吾。東京の国際大会代表を勝ち取った19年の第1回マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)優勝をはじめ、数々のマラソンや駅伝で「強さ」を示してきた中村選手に、これまでの競技人生を振り返ってもらった。

陸上競技との出会いは、小学5年生の時。毎年冬に行われる3kmの校内マラソン大会で上位に入り、「マラソンって楽しいな。来年はもっと良い順位を取りたいな」と感じたことをきっかけに、友人の誘いもあって地元の陸上クラブチームに加入した。「50m走や100m走はあまり速くなくて、リレーのメンバーにも入れなかった。どちらかと言えば、長距離に向いているんだろうな」と感じ、中学生から本格的に長距離に取り組み始めた。県レベルでもなかなか優勝に届かなかったが、3年時の三重県中学駅伝で1区区間賞を獲得し、全国都道府県対抗男子駅伝に初出場。初めて念願だった全国の舞台を踏んだ。
そこから全国トップ級の選手へと飛躍を遂げたのが、三重・上野工業高校(現伊賀白鳳高校)時代だ。名伯楽として知られた町野英二監督(2012年に死去)の元、駒大時代に箱根駅伝でも活躍した高林祐介(現立教大監督)ら好選手を輩出していた。中村は町野氏の指導について、「強豪校と比べて練習量は少なかったが、人としてどう振舞っていくかというところを非常に大切にされていた」と振り返る。競技力と共に人間力が磨かれ、3年生の頃から本格的に能力が開花。全国高校総体(インターハイ)は5000mで3位に入ると、国体少年Aでも4位と好走。世代トップランナーの1人に名を連ねた。一方、上位進出が期待された全国高校駅伝では、故障の影響で1区44位と苦しい走りとなったが、失意のどん底で町野氏からかけられた「中村は将来的にマラソンで日の丸を背負っていける選手だから、頑張れ」という激励が、その後の競技人生を通じて大きな支えとなった。
卒業後の進路として駒沢大学を選んだのは、高林をはじめ高校の先輩たちが駒沢で活躍した姿に憧れたことも大きかったが、何より将来的なマラソン挑戦を見据える上で、元日本記録保持者で世界選手権にも出場した藤田敦史(富士通OB、現駒沢大学監督)を育成した大八木弘明監督(現総監督)の指導を受けたいという思いが強かったからだ。
ただ、入学当初は高校と比べものにならない練習量の多さに戸惑った。「高校時代は駒沢大学の朝練習ぐらいしかやっていなかったので、朝だけで精一杯で、その数時間後には午前練習があるという状態でした」。下級生の頃は故障や貧血にも悩まされ、苦しい時期が続いた。それでも伝統の走り込みやクロスカントリー走を通して徐々に体ができてくると、高校時代からの特長だった背筋がピンと伸びた美しいフォームがレース終盤でも崩れなくなり、3年目の大ブレイクへと結びつく。関東インカレ2部10000m優勝を手始めに、日本選手権でも5位に入賞し、ユニバーシアードのハーフマラソンでは銅メダルに輝いた。後期の駅伝シーズンでは出雲駅伝、全日本大学駅伝とそれぞれ1区を走って区間賞を獲得。2度目の出走となった箱根駅伝でも1区2位と力を示し、「1区のスペシャリスト」として一躍名を馳せた。
中村の成長を促したもう一つの要因が、強力なライバルたちの存在だ。1学年上には、のちにそれぞれマラソン日本記録保持者となる早稲田大学の大迫傑(現リーニン)、東洋大学の設楽悠太(現西鉄)らがトラックレースや駅伝で立ちはだかり、「大迫さん、設楽さんの存在は、すごく大きかったです。彼らにどうしたら勝てるかということを常々考えて、日頃トレーニングをできていたのがすごく良かったと思います」と、大きな刺激を受けていた。
そうした試行錯誤の中で磨き上げたのが、自身の代名詞となるロングスパートだ。「元々小中学生の頃から最終盤のスプリント的な要素はなかなか磨くことができなくて、常々指導者から『中村が勝つなら、やはり早い段階で仕掛けるロングスパートだ』と言われてきたので、自分自身もそこを極めていこうという考えになりました」。その成果が最大限発揮されたのが、4年目の箱根駅伝だった。故障の影響で年間を通して本調子ではなかった中、残り2kmを切ってから2度、3度とスパートを仕掛ける攻めの走りで、最後は2位と1秒差で区間賞を獲得。自身も「大学時代のベストレース」と認める集大成の快走だった。
大学卒業後の進路を決めるにあたり、最大のポイントとなったのが、引き続き大学を拠点にして大八木監督のマラソン指導を仰ぐことだった。3年時の2013年9月、7年後の東京で国際大会開催が決定した際に、大八木監督から「一緒にマラソンで目指さないか」と誘いを受けた。「それまでは私の中で、卒業後も大学を拠点にという発想がなかったので、そういった言葉をいただいた時はすごくうれしかったし、大八木さんに指導していただいたらもう間違いないという信頼関係がありました。」と、申し出を快諾した。
複数の実業団から勧誘を受ける中で、最終的に富士通を選ぶ決め手となったのは、福嶋正監督(2022年から総監督)らスタッフへの信頼感だ。「福嶋さんは本当に温かみのある方ですし、マネージャーだった吉川三男さん(現事務局長)も駒沢出身で以前から面識があったので、この2人だったら母校を拠点にしてチームから離れた環境でも、しっかりコミュニケーションを取りながらやっていける環境を整えてもらえるなと感じました。」という。

実業団選手として新たなスタートを切る中で、最大のターゲットとするマラソン初挑戦は、結果的に3年目の冬まで待つこととなった。大学4年時に出場した熊日30キロロードレースで後半の失速により3位に終わり、スタミナ不足を痛感したことを受け、富士通加入後は持ち味とするスピードとスタミナ両面のベースアップにしっかりと時間をかけた。実業団2年目の17年春、日本陸上競技連盟が新たな国際大会代表選考方式となるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)の開催を発表し、2年間の指定競技会で一定の記録と順位の条件を満たさなければ19年9月のMGC本戦に出られない「二段階」の方式を採用したことを受け、早期のMGC出場権獲得を見据え、マラソンデビュー戦を18年3月のびわ湖毎日マラソンに決定した。
初マラソンに向けてのトレーニングは当初、大八木監督が指導した藤田の練習メニューをベースに、2時間6分台を目指す取り組みが進められた。しかし、月間走行距離がゆうに1000kmを超えるスタミナ型の藤田と比べ、スピードが持ち味の中村はメニューの消化に苦戦した。結果的にスタートラインに立った時点でも体に重さが残り、レース後半は「本当に果てしなく長いと感じた」。それでも残り500mからの猛烈なラストスパートを見せ、2時間10分51秒で日本人トップの7位に入り、MGC出場権獲得条件(日本人1~3位で2時間11分以内)に残り9秒で滑り込んだ。
「内容的に見ると、どちらかというと成功したかと言われればちょっと疑問が残るようなレースでした」という初マラソンを終え、大八木監督と今後の方向性を話し合う中で「中村の良さを活かしたようなトレーニングに変えていくべきではないか」という思いが一致した。それは、当時駒沢大学のコーチを務めていた藤田からの「中村には中村の良さがあると思うから、そこを活かした方がいいんじゃないかな」という助言とも重なった。
MGC本番に向けてのトレーニング期間も含めたリハーサルと見据え、2度目のマラソンはちょうど1年前にあたる18年9月のベルリンに決まった。前回の課題点を踏まえ、月間走行距離は700km程度に抑え、質の高いスピード練習に重点を置いた。一方、アメリカの標高2000m級の高地合宿で心肺に負荷をかけることで、走行距離が減ってもスタミナ面の強化を担保。その後、長野・菅平の準高地(1300m)を挟んで、最後に平地という3段階の流れでスピードの質を上げていくパターンに挑戦すると、この取り組みがはまった。ベルリンでは単独走の場面が続くレース展開となったが、2時間8分16秒の大幅自己ベスト更新で4位に食い込み、翌年に控えるMGCに向けて大きな自信をつかんだ。
東京での開催が予定されていた国際大会とほぼ同じコース(当時)で開催された第1回MGCには、出場権争いを経て選りすぐられた30人の国内トップ選手が一堂に会した。中でも、18年にそれぞれ日本記録を更新した設楽悠太と大迫傑、福岡国際マラソンで日本勢14年ぶりの優勝を果たした服部勇馬(トヨタ自動車)、ジャカルタ・アジア大会で金メダルを獲得した井上大仁(三菱重工)が「4強」と呼ばれて注目を集める一方、自己記録で8番手の中村は19年3月に出場した東京マラソンで振るわなかったこともあり、ダークホース的な見方が強かった。しかし、当の本人は「前年のベルリンに向けた取り組みのベースがあって、これをやれれば本当に勝てるという自信がありました。」と、当時の心境を振り返る。
上位2人が国際大会の日本代表に内定する一大決戦は、スタート直後から設楽が1人飛び出し、中間点で後続に2分以上の差をつける驚きの展開となったが、「もう代表争いは残り1枠になるかなと覚悟しましたが、35kmを過ぎて徐々に姿が見えてきたので、安心して最後に備えられました」。2位以下の集団で度々抜け出そうという動きを見せる選手がいた一方で、中村は冷静に集団内で息を潜め、終盤の勝負を見据えていた。37km過ぎで失速した設楽をかわし、9人の先頭集団で迎えた残り3km地点。上り坂にさしかかるところで一気にスパートを仕掛け、単独トップに躍り出た。41km過ぎで大迫と服部が追いついてきたが、前日の下見で勝負所と見定めていた残り800mの上り坂で、再びギアを上げた。学生時代から磨き抜いてきた「2段スパート」で2人を振り切り、最後は大きく両手を広げて歓喜のゴールテープに飛び込んだ。

「東京で国際大会の開催が決まってから、長年かけてやってきたことが一つ報われた瞬間でした。何よりも大八木さん、福嶋さんが本当に同大会の選手を出したいということを常々言ってくれていて、感謝の気持ちも込めて走れたのは、僕にとってもすごい喜びでした。準備段階も含めて、ベストなレースができたと思います」。固い信頼関係の元、異例の挑戦をタッグで導いてくれた2人の指導者に恩返しを果たし、万感の思いがこみ上げた。
同じ三重県出身の2004年アテネ大会金メダリスト・野口みずきさんに憧れ、夢見てきた国際大会の舞台へ心身共に充実した状態で向かおうとしていた20年の年明け、新型コロナウイルスの感染拡大という思わぬ事態が状況を一変させた。3月には東京大会の1年延期が決まり、その後も政府の緊急事態宣言による外出自粛などで練習や生活が制限される時期が長く続き、「モチベーションを維持し続けるというのは、やはり正直なところ難しかった」と率直な思いを明かす。翌21年は元日のニューイヤー駅伝4区区間2位の好走で富士通にとって12年ぶりの優勝に大きく貢献する幸先のいいスタートを切ったものの、3月のびわ湖毎日マラソンに向けた鹿児島・奄美大島での合宿中に左足を痛め、大事を取って欠場を決断。国際大会本番まで約半年という時期に見舞われたアクシデントに、「やはりどこかで心の焦りがあって、ちょっとまだ気になるという段階で走り始めると結構バランスを崩してしまい、左右また違うところが痛くなってという感じでどんどん続いてしまいました。今思うと、もう少しちゃんと治しておけばよかったのですが、想像以上に長引いてしまいました」。マラソン日本代表として国際大会で結果を残すという責任感を2年近くも背負うという異例の事態が歯車を狂わせ、負のスパイラルを抜け出せなかった。
心身両面で苦しい時期を過ごす中、それでも夢舞台のスタートラインに立つ決意が揺らぐことはなかった。練習量は明らかに不足し、本調子にはほど遠いことは自覚しながら、「1日1日、自分がやるべきことに集中した」と、最後まで最善の努力を尽くした。猛暑対策のために会場が札幌に移り、迎えた8月8日のレース当日。当時世界記録保持者のエリウド・キプチョゲ(ケニア)ら錚々たる顔ぶれとともにスタートラインに並び、「ずっと目標にしていた舞台に立てて、すごく感慨深いものがありました」。スタート直後から先頭集団につくことはせず、現状の持てる力を振り絞りながら一歩一歩前進した。気温はレース中に30度近くまで上昇し、湿度も80%に迫り、30人が途中棄権した過酷な暑さを耐え抜き、最後は2時間22分23秒の61位でフィニッシュした。「結果を振るわなかったですが、一つゴールして形を残せたということは、今となっては一つの誇り。(コロナ下で)決して全ての方から応援される大会ではなかったと思いますが、皆さんの理解を得て無事開催できたということには、アスリートとして感謝の気持ちでいっぱいでした」。
レース後に報道陣の囲み取材を受けた際には、「次は(3年後の次回国際大会の)パリを目指す」と語っていた中村だが、実際の心中は「7、8年かけて準備してきた大会が終わり、一つの節目だと思っていました。なかなか気持ちの整理ができず、すぐに切り替えて練習ができるという状況ではなかったです」と打ち明ける。
東京国際大会後、東京都内の母校・駒沢大学から富士通の選手寮がある千葉市に活動拠点を移し、チーム本隊に合流したのも、パリに向けて心機一転を図るという意味合いが大きかった。ただ、もう一つの動機として、「やはり富士通というチームでやらせてもらっているからには、自分だけではなく、駅伝をはじめチームで取り組む部分も大切にしなければならないという思いがありました。私自身も年齢が上がり、最年長に近い状態になってきていたので、何か自分の経験を次の世代に伝えるきっかけになればと感じていました」。元来、物静かで多くを語るタイプではないが、練習の合間に後輩たちの相談を受ければ、「少しでも協力してあげたい」という思いを持って自身の考えを伝え、現在は2時間6分台の安定したパフォーマンスを続ける浦野雄平をはじめ、後進の成長を後押しした。

一方で、中村自身はその後もなかなか本来の走りを取り戻せず、マラソンでも失敗レースを繰り返した。「東京大会に向かっていた時のような『絶対に出るんだ』という熱意が、どうしてもわき上がってこなかった。また故障が長く続いてしまったので、基礎を作る期間がないまま、どうしても目の前のマラソンに飛びついてしまった」。結果として23年10月に開催された第2回MGCの出場権獲得を逃すなど、パリの代表争いに絡むことはできなかった。
パリへの挑戦が幕を閉じた時点で、年齢は31歳。選手生活を終えて次のステージに進む考えも頭をよぎり始めた中で、踏みとどまる要因となったのは、22年から総監督としてマラソントレーニングを支えてくれた福嶋への思いだった。「このまま失敗し続けて引退というのは、福嶋さんに申し訳ないという気持ちがあった。もう一度本気になって、25年の東京の世界選手権を目指したいという気持ちをお伝えさせてもらいました」。再起を図るレースとして選んだのは、24年8月の北海道マラソン。「世界選手権から逆算して、しっかりもう一度勝負で勝つということを取り戻す第一段階」という狙いとともに、「2021年での忘れ物というか、同じ舞台の北海道・札幌で優勝することで、気持ちの面でも一つのきっかけになればいい」と、リベンジの決意を固めていた。
北海道に向けては福嶋総監督と相談を重ね、マラソントレーニングの方向性を改めて見直した。マラソンを重ねる中で自然と増えていった距離走のボリュームを抑え、スピード強化に比重を置きながら練習の継続性を高めるという新たな取り組みに挑戦した。レース本番でも、31km付近で一度前に出て集団を揺さぶると、37km付近からの早めのスパートという今までにないパターンで一気に後続を突き放し、2位に1分近い差をつける2時間15分36秒で優勝。「自分自身が福嶋さんとやってきた一つの形を作れた大会で、そこで勝ててよかった」と、大きな達成感をかみ締めた。その後、東京世界陸上の出場は果たせなかったが、「また一つ違う形を作って成長できた。最後に悔いなく引退を迎えられたのは、福嶋さんのおかげ」と、選手としての新たな可能性を引き出してくれた指導に感謝した。

当初は東京世界選手権出場を逃した時点で現役生活を終える考えだったが、25年春からは指導者としての道を見据え、競技を続けながら早稲田大学大学院に通ってスポーツマネジメントを1年間学んだ。箱根駅伝の強豪校やアメリカの大学へ研修に赴きながら様々な指導の視点を吸収し、相撲やバスケットボールなど他競技の現場にも足を運んで人脈を広げた。その中で、出雲駅伝に出場するアイビーリーグ選抜の臨時コーチを務めるという貴重な経験も得るなど、「色んな人とのつながりが増えたのが、一番の収穫でした。」と語る。

今年1月に今年度限りでの現役引退を発表した後、2月には3大会に出場。まずは地元三重県で開催された四日市みなとランフェスティバル、美し国三重市町対抗駅伝に出走し、長年応援してくれた方々への感謝の思いを表した。駅伝では四日市市チームのアンカーとして優勝テープを切り、陸上を始めた陸上クラブのコーチにゴールで迎えられ、「特別な時間になりました」。そして、現役最終レースとなった阿波シティマラソンでは、沿道から「ありがとう」「今までお疲れさま」という多くの労いの言葉をかけられ、「本当に多くの方に応援していただいた競技人生だったんだなと、改めて振り返ることができて、本当に、心の中から満足して終われました」と、約22年間のキャリアを悔いなく締めくくった。
4月からは、箱根駅伝初出場を目指す明治学院大学長距離ブロックの監督に就任することが発表された。指導者としての理想像については、「大八木さんや福嶋さんのように、本当に選手に寄り添って、温かみのある指導ができるようになれたらいい」と思い描く。「本当に自分の人生の中で、陸上競技は切っても切り離せない存在。今までの私の経験、そして私自身が周囲の方々にしていただいたことを、次の世代の選手たちに受け継いでもらえるように頑張っていきたいです」。陸上人生の第2章も、真摯に、愚直に前進し続ける。

(読売新聞東京本社運動部・西口大地)
