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陸上 富士通陸上競技部


FIELD EYE 田野中 輔
ベルリンの雪辱を胸に、更なる戦いに挑む

憧れの富士通陸上競技部へ

実は高校の頃から富士通に憧れていたという田野中。「富士通陸上競技部のOBに小苗久信さんという先輩がいらっしゃるのですが、僕が高校生の時、1996年広島国体で一緒に110mハードルの千葉県代表になったのです」。その国体選考会で圧倒的な強さを見せる小苗が着ていたのが、富士通の赤いユニフォームだった。「小苗さんの赤いユニフォームにすごく憧れを持って、“陸上をやるなら富士通でやりたい”と高校の時から思っていました」。

そんな田野中が陸上と出会ったのは中学の時。スポーツ万能で、中学ではサッカー部に入るつもりだったが、レベルの高さについていけず退部。それを知った陸上競技部の顧問の先生から強引に誘われ、陸上競技部に入ることとなった。この時の身長は152cm。最初は長距離だったが、3年生で180cmにまで成長したのを機に棒高跳びに転向。県大会へも出場した。その後は陸上の強豪校である東海大学付属望洋高等学校に進学。アスリートとしての能力が高かったのか、また器用な選手だったためか、八種競技(100m、400m、1500m、110mハードル、走幅跳、走高跳、砲丸投、やり投)をすることになった。

高校時代はこの八種競技のほか、「すっかり楽しさにハマった」という110mハードル、4×400mリレー、4×100mリレーを中心に取り組んだ。3年生の時にはインターハイで110mハードル、八種競技で優勝している。そして大学も陸上の名門、筑波大学へ進学。ケガが多かったが、4年生のシーズンは順調に迎えることができ、全日本インカレでは日本学生記録にあと0.01秒に迫る、当時の大会新記録(13秒77)で優勝を飾った。

大学で進路を考える時期になった時、田野中は企業チームでは、高校時代からあこがれていた富士通しか考えておらず、就職活動では、知りあいの先生を通して富士通にアプローチをする。当時、富士通は短距離の選手が入れ替わる時期で、「伊東浩司さん、苅部俊二さん、簡優好さんといった日本代表選手が2000年のシドニーオリンピックで引退された」。その翌年の2001年に田野中は、富士通の短距離陣を担う選手として入社することになった。


世界の舞台へ

入社後、目立った活躍のなかった田野中だったが、2004年アテネ五輪の年に飛躍を遂げる。五輪選考会となった日本選手権で13秒65をマークし、自己ベストを更新。日本選手権で初優勝を遂げた。だが、五輪参加標準記録A(13秒55)が突破できず、その後の大会でも、A標準を突破した選手に勝つことができず、アテネ五輪出場の夢は叶わなかった。一度は引退も考えていた田野中だったが、現役を続行する。

ようやく田野中が世界の舞台に出たのは2007年、大阪で行われた世界選手権だった。2006年4月に田野中は13秒55の自己新記録で、世界選手権参加A標準記録を突破。世界選手権大阪大会で田野中は予選で13秒61のタイムをマーク。3位に入り準決勝に進出した。そして準決勝では13秒62の6位で敗退となったが、初の世界大会出場を飾った。翌年の北京五輪出場はならなかったものの、110mハードルで日本のトップ選手の一人となった。

そして迎えた2009年、「今年はシーズン最初から調子が良かった」と田野中。世界選手権選考レースとなる6月の日本選手権も、「勝って当然だと思っていた」と言うほど調子は良かった。そして8月17日、ベルリンのオリンピア・シュタディオン。世界選手権、110mハードルの予選第1組。気負いすぎることもなく、心地よい緊張感の中で田野中はレースを迎えていた。「ベルリンの青いトラックも好きでした。大学1年生でベストを出した時のトラック(千葉県白井市・運動公園陸上競技場)も青だったし」。田野中は最高の状態でスタートを待っていた。


不完全燃焼のベルリン

スタートの合図とほぼ同時に、田野中はスタートを切った。反応速度は0秒119。フライングかと思うほどの速さで田野中は先頭に立った。「しっかり音を聞いてから出ました。あれがフライングだったら、僕はトラックで大の字じゃなくて、小の字になって寝ますね(笑)」というほど、会心のスタートだった。

しかし、予選の1台目のハードル。その踏み切りの瞬間、田野中の世界選手権は終わってしまった。「110mハードルは最初の踏み切りが全て。ここでダメだったらもうレースは終わり」と田野中は言う。この時は、踏み切り位置が5cmほど深かった。「最初のハードルでリズムを掴み、3台目で最高速に達する」。しかし、1台目でハードルに近づきすぎた田野中の身体は浮き始め、前へ進むために力を使うのではなく、身体が浮かないように押さえ込むことに力がさかれてしまった。1つ目で狂った歯車はもはや修正不能なレベルだった。

最高速に達するはずの3台目から、逆に田野中は失速していく。タイムは13秒84で7着。まさかの1次予選敗退となった。「予選は13秒6で通ると思っていたので、普通に走れば3着で間違いなく通ると考えていました。調子からもみても行けそうだったし。目標は準決勝だったが、後から振り返ってみると、あわよくば決勝に残れたかも。13秒4台で走れるとは思っていたので」。最低でもあと1レースするはずだったベルリンの夏はこうして終わりを告げた。

「十数年やってきて、レースで満足したことはほとんどないです。『ウォーミングアップの方が動けていた』とか、『記録は出たけど、なぜ出たのだろう』といったことの方が多いです」と話した後、続けて「自分の思い通りのレースをできることが、選手として一番満足できる形だと思うので、今後、どこかで思い通りのレースをしたいですね」。


キャプテンとして

世界選手権の後、スーパー陸上と全日本実業団を故障で欠場した田野中。しかし、男女総合3連覇を目指す全日本実業団では、キャプテンとしての役割が待っていた。富士通の選手のほとんどが参加する全日本実業団、キャプテンシーの発揮しどころでしょう?と聞くと、「表彰式で優勝旗をもらうところだけです」と笑っていた田野中。だが、大会では先頭に立って今季で引退する佐藤光浩、越川秀宣を盛り上げていた。そしてチームは総合3連覇を達成。「富士通は総合優勝を“しなければいけない”チーム。その中でしっかりと獲得できてホッとしています。また、引退する佐藤、越川を応援することができたのは良かったと思います。富士通ってまとまりがあって、温かいチームだなと改めて思いましたし、楽しかった」。

北京五輪から始まり、ニューイヤー駅伝の優勝、世界陸上に8名出場、そして全日本実業団3連覇といい流れで来ている富士通陸上競技部。そんなチームのキャプテンとして大変なことはないかと聞くと、「大変さは全然ないですね。アスリートとしてみんながキッチリしているので、本当はキャプテンなんか必要ないんです。ただ、今はスタッフがチームのサポートで手一杯ですから、誰かが現場で何かをしなければいけない場合には、それは僕がやりましょうと言っています」ときっぱり。「これからシーズンに入る駅伝もその流れに乗って欲しいですね」と、長距離陣にエールを送っていた姿は、どこから見ても頼りになる“キャプテン”そのものなのだ。


プロフィール

田野中 輔

田野中 輔
(たのなか・たすく)

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田野中選手あれこれ

  • 陸上をやってなければ何をしていたか?の質問に「野球」と答えた田野中選手。「野球は好きです。大学のときもチームをつくっていましたし、今も草野球のチームのユニフォームを持っています。1回も行ってないですけど(笑)」。
  • そのユニフォームの背番号を聞くと「17」とのこと。理由は「No.17を『NO17』と書いて逆さにすると『LION』になるんですよ。ライオンは百獣の王じゃないですか。110(ひゃくじゅう)の王になりたいので。(つまり、田野中選手が競技種目としている110mハードルの王になりたいということ)。車もずっとNo.17です」。
  • 奥さんのつくる手料理で好きなメニューは『肉じゃが』。合宿から帰って、奥さんが「何を食べたい?」と聞くと、肉じゃがとしか言わないそうです。奥さんからは「肉じゃがしか作れないみたい」とクレームがつくそうですが、「僕、本当に肉じゃがが大好きなので(笑)」。もちろん、他の料理もおいしいそうだ。
  • 趣味は車と言う田野中選手。今は「子供といるのが楽しくて仕方ないですね」。休みの日は愛娘と必ず遊んでいるそう。世界選手権の後は、一緒にプールにも行ったらしい。

取材・文/NANO Association

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観客席から観ただけでは決して感じとる事のできない選手ひとりひとりのストーリー。

陸上への想い、悩みや葛藤、そして素顔の部分など、選手自身の言葉で語っています。

今後もFIELD EYEでは選手に密着取材し、富士通陸上競技部の選手を紹介していきます。