山形合宿2017


今年もこの季節がやってまいりました
毎年恒例、山形県蔵王にて高地トレーニング合宿

標高1000m、酸素濃度の低い場所でのトレーニングは
とっても負荷がかかるんです

今シーズンは天候にも恵まれ、毎朝青空の下でロングジョグ
#31シオリ(高田)と#9ショウ(村山)が皆を引っ張ります

走ったあとはメインのバスケットの練習
皆で声出して、指摘しあって、走って、ぶつかり合って

紅白戦では、フレッシュな若手が先輩にくらいつく姿も
コミュニケーションをとる姿がよく見られました

さらに今回は新しいストレングスコーチを迎えて初めての合宿
トレーニングにも熱がはいりますよ~

新人の#16クゥ(栗林)はたくさん指導を受けてました
まだまだここから当たりに負けない強い身体をしっかり作っていこうね

クロスカントリーの傾斜を走ったり、

おんぶをしたり、時にはかつぐことも

かついで傾斜のある道を走るって、、すごい、、

きついトレーニングの中にも笑顔が見られました
きついことはチーム全員で声をかけあいながら楽しんでやる
大切なことですね

7日間恵まれた環境でとっても密度の濃い練習ができました
怪我なく無事1週間の蔵王合宿終了

きつい練習とトレーニングを皆で乗り越えました
(ちらほら疲労も見え隠れしていますが、、、)

代表合宿で参加できなかった#10ルイ(町田)と#11シィ(篠崎)から合宿中に応援メッセージが届きました(ちゃんと左上にいるよ~
違う場所にいても仲間お互いがんばろう

10月の開幕まで「ONE TEAM,ONE HEART」をかかげチーム一丸となって頑張ります
今後とも応援よろしくお願いします

1・2・TEAM

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三谷藍インタビュー Part.2 シックスマンとしての存在感


思い返せば富士通レッドウェーブがWリーグ屈指の強豪へ突き進む時期と、三谷藍の成長曲線はぴったり合致する。三谷が入社した2001年、レッドウェーブはWⅠリーグ(今はなくなったが、Wリーグの下位に位置する2部リーグ)に属していた。同年チームがWⅠリーグを制し、Wリーグ昇格を決めると、三谷個人はWⅠリーグの新人王を獲得。2005年、三谷が日本代表に初選出されると、チームは翌2006年からオールジャパン3連覇を達成。2007-2008シーズンにはWリーグ制覇も達成している。その後、日本屈指のオールラウンドプレーヤーとして国内のみならず、アジア、世界にも活躍の舞台を広げた三谷は2015年、4年ぶりに代表復帰。アジア選手権制覇にも貢献した。前後して、チームはしばらく遠ざかっていたWリーグファイナルへの扉も開いている。そんなレッドウェーブ一筋16年の三谷藍が2017年春、その競技人生に幕を下ろし、新たな道を歩み始める。

 

◆日本代表に選ばれて変わった意識今年度(2017年度)の女子日本代表候補に、富士通レッドウェーブからは6名の選手が選ばれた。山本千夏、篠原恵、篠崎澪、町田瑠唯、長岡萌映子(のちに退部を発表)、そして新人の栗林未和である。彼女たちはそれぞれに豊かな才能を持ち、高校時代から将来を嘱望され、アンダーカテゴリーの女子日本代表にも選出される逸材たちであった。富士通から世界へ、との気持ちを持って入社してきたわけだ。

しかし三谷藍は彼女たちとは異なる。自分が日本代表に選ばれるなんて、「まったく思っていなかった」し、そもそも日本代表入りを目指していたわけでもない。裏を返せば2005年、三谷が日本代表に選出されたことは、本人にとっても青天の霹靂だった。

「こんなことを言うと関係者の方々に申し訳ないのですが、選ばれたときにそこまでの感動はなかったかもしれません。それよりも知らないところに入ってプレーする不安のほうが大きかったですね。私はこう見えて人見知りで、知らない人が集まるところに入っていくことが得意ではないから、怖いなって思ったんです」

時代は、今でこそあまり珍しくなくなってきたが、180センチオーバーのオールラウンダーを求めていたとき。三谷はそれに合致したが、だからといってすぐに日本代表の試合に出られるわけではない。不安は合宿を重ねるごとに消えていったが、次に沸き起こってきたのは悔しさだったと三谷は認める。

「最初に日本代表へ入ったときは試合に全然出られなくて、走り込みしかしていなかったんです。レッドウェーブに戻ったら試合に出られるのに、日本代表に入ったら試合に出られない状況がすごく悔しくて、そこから日本代表を1つのチームとして考え始めたんです。そうして何年か続けていたら、日本代表でもっと試合に出たいという欲が出てきて、このチームで勝ちたい気持ちになっていったんです」

◆三谷藍という存在が日本に残したもの日本代表の強化合宿で見る三谷は、主力チームを相手にする、いわゆるBチームであることが大半だった。それはとても重要な役割であるが、一方でそこに安住を求める選手は誰もいない。練習後、三谷は黙々とトレーニングを励んでいた。練習後だけではない。国際大会に参加したときなどは、試合に出られなくても、毎朝の走り込みを欠かさなかった。そうまでしても試合に出られるかどうかわからないのが日本代表である。

その後、一度は日本代表から離れるが、2015年、再び三谷はその座に返り咲く。BTテーブスのもとでシックスマンとしての存在感を示し、その力が認められてアジア選手権に臨む日本代表に選出されたのだ。しかし三谷の出場時間は極めて少なく、全7試合中3試合しかコートに立っていない。そのうち2試合は日本が100点前後の得点をあげるような大差のゲームだった。中国との決勝戦も、思わぬ大差がついたことで三谷は日本代表として最後のコートに立ち、3ポイントシュートを1本沈めている。そのときのベンチの喜び方が三谷藍という人物の、チームでのポジションを物語っている。ベンチの選手たちはその瞬間を「待っていました」とばかりに、飛び跳ね、喜んだのである。

そのように三谷は日本代表で突出した記録を残したわけではない。

「でも私にとって日本代表に選んでいただいたことは、とてもプラスです。いい経験をさせてもらいました。学生のときは、まさかそんなことを考えもしない選手だったのに、富士通に入って、いろんな人に出会って、まさか日の丸を背負って試合をするなんて……嬉しかったですね」

五輪の舞台に立つことはできなかったが、2016年夏に女子日本代表が8位という成績を残した陰に、富士通レッドウェーブの三谷藍がいたことを忘れてはいけない。

◆3つのメッセージレッドウェーブ退部した三谷は今、次のステップに向けて充電中だという。何かやることが決まっているわけではない。思い描いているものはあるが、今はまだ人に言えるような状況にない。現役生活を終えた今、まずはゆっくりとこの先のことを考えたいということなのだろう。

最後に三谷は3つのメッセージを残してくれた。
まずは入社以来、さまざまな面で支えてくれた富士通社員の方々に対して。

「私が入社したときはWリーグの2部(WⅠリーグ)で、女子バスケット部の認知度も低かったと思うんです。でもオールジャパンやリーグで優勝したり、勝つことが増えていって、だんだん社内で声を掛けていただくことが多くなっていきました。『応援しています』、『見ています』って。体育館で出会う人もそうだけど、そういう声が増えていったことは本当に嬉しかったし、そういう人たちの期待に応えたい思いもあったので、ここまで頑張れました。最後はもう少しよい終わり方をしたかったんですけど、それが叶わず、申し訳ない気持ちもありますが、後輩たちが頑張ってくれると思うので、引き続き応援していただけると嬉しいです」

次に全国に拡大していったレッドウェーブファンに対しては明るく、笑いながら、こう切り出した。

「やはり年を取るにつれて、ファン層が変わっていく現実を目の当たりにした16年でした(笑)」

そしてこう続く。

「若いころはファンも若い人だったり、男女両方いましたけど、年々、主婦層が増えていったんです。でも、それが自分のやってきたことのすべてだと思います。この年齢まで、バスケットボールという激しいスポーツをやってきたことで、主婦の方だったり、同年代より少し上の方から『元気をもらえる』とか『私も頑張ろうと思います』と言ってもらえることがすごく嬉しかった。それまでもファンの存在や言葉はありがたかったですが、年齢を重ねてからのほうが、それらの言葉がより一層身に染みたし、そういう声を聞いて自分自身も『もっと頑張ろう』と思えたんです。だから全国各地で声をかけてくださったファンの方々、ずっと応援してくださった方々に本当に感謝しています」

なんとも三谷らしいお別れの言葉である。日本のトップに立ちながら、いつもファンと同じ目線で話してくれる。これが愛される選手の要素なのかもしれない。

そして最後に三谷は、レッドウェーブのDNAを引き継ぐべき、チームメイトたちにもエールを送った。

「昨シーズンの負け方を一人ひとりがどう捉えているかが、今シーズンに反映されると思うので、みんながどれだけあの悔しさをバネに1年頑張れるか。1年って短いようでいて、出だしはすごく長いものだから、その集中力や意地をどれだけ持続できるかが大切だと思います。また私が辞めて、ずっとチームにいたベテランがいなくなることって、とても大きなことだと思うんです。でもそれをプラスに捉えてほしいと思います。負けたことや、ベテランがいなくなって、選手それぞれの責任は重くなっていくけど、それを自分が変われるチャンスだと思って頑張ってほしいですね」

WⅠから始まり、黄金期を迎え、勝てない苦しみを知り、そこから這い上がることの難しさを経験してきた三谷が抜ける穴は大きいが、だからこそ、チームはさらなる高みを目指して、次の一歩を思いきって踏み出せる。苦しいときは三谷に相談すればいい。

三谷藍さん、16年間、本当にお疲れさまでした。そして感動をありがとう!


三谷藍インタビュー Part.1 “スター選手ではなかった”からこその努力


思い返せば富士通レッドウェーブがWリーグ屈指の強豪へ突き進む時期と、三谷藍の成長曲線はぴったり合致する。三谷が入社した2001年、レッドウェーブはWⅠリーグ(今はなくなったが、Wリーグの下位に位置する2部リーグ)に属していた。同年チームがWⅠリーグを制し、Wリーグ昇格を決めると、三谷個人はWⅠリーグの新人王を獲得。2005年、三谷が日本代表に初選出されると、チームは翌2006年からオールジャパン3連覇を達成。2007-2008シーズンにはWリーグ制覇も達成している。その後、日本屈指のオールラウンドプレーヤーとして国内のみならず、アジア、世界にも活躍の舞台を広げた三谷は2015年、4年ぶりに代表復帰。アジア選手権制覇にも貢献した。前後して、チームはしばらく遠ざかっていたWリーグファイナルへの扉も開いている。そんなレッドウェーブ一筋16年の三谷藍が2017年春、その競技人生に幕を下ろし、新たな道を歩み始める。

 

◆決して“スター選手ではなかった”からこその努力2017年2月20日、鹿児島県総合体育センター体育館。富士通レッドウェーブはシャンソン化粧品シャンソンVマジックに【55-57】で敗れ、2016-2017シーズンのWリーグをプレーオフ・クォーターファイナルで終えた。三谷藍が引退を決意したのはそのときだったと言う。

「引退の決め手は最後に負けたとき。あの負け方でもちろん悔しかったですが、今までだったら“悔しいからもう1年頑張ろう”と思えていたのが、その気持ちが出てこなかったんです」

思えば16年、ガムシャラに走り続けてきた。専修大学から入社したとき、彼女は決して鳴り物入りだったわけではない。彼女が生まれた1978年は女子バスケット界の“豊作”とも呼ばれる年で、同期入社の船引まゆみや矢野良子、三木聖美、渡邉温子、榊原紀子、石川幸子、林五十美、山田久美子……バスケット界で「花の78年組」と呼ばれる、錚々たる猛者たちがひしめき合っていた。しかし三谷は“そこに入らない選手”だと自認していた。

でも、だからこそ、人一倍努力をした。同期生を打ち負かして、自分が頂点に立とうと思ったわけではない。負けたくないが、まずは目の前に置かれた見たこともない高さのハードルを飛び越えることに、ただ必死だったのだ。

その才能を見出したのが、三谷が入社した年にヘッドコーチに招聘された李玉慈である。三谷が言う。

「入社したときに李さんに出会ったことは、自分にとって大きな宝です。たぶん何年か後に出会っていたら、ここまでリスペクトしていなかったかもしれません。李さんを含めてすべての出会いのタイミングが私にはよかったから、ここまで続けてこられたんだと思います」

禅に「啐啄(そったく)の機」という言葉がある。簡単に言えば、才能を花開こうとする弟子と、それを見抜いて引き上げる師。両者の意識の高まりがあり、そのときに出会ってこそ、すべてがうまくいくという意味だ。まさに三谷と李の出会いは「啐啄の機」である。

三谷は李からバスケットの基礎を改めて教わり、さらに社会人として、報酬をもらいながらプレーする選手の心得、あり方を学んだ。李だけではない。山田かがり、守屋志保、相澤優子といったリーグでも屈指の好プレーヤーたちと交われたことも、その後の三谷の土台を作り上げていった。

◆“黄金期”と“模索”の時期"李ヘッドコーチのあとを受けた中川文一の下で、三谷は日本一を経験する。一度だけではない。オールジャパン3連覇(2006〜2008)と、Wリーグ初制覇(2007-2008シーズン)の計4回、頂点に立ったのだ。三谷を初め、船引かおり・まゆみ姉妹、矢野良子、畑恵里子らがチームの根幹を支えた、まさに富士通レッドウェーブの“黄金期”である。

「オールジャパンで初めて優勝したときは、トーナメントだし、勢いづけて優勝できたことがすごくラッキーだったと思うんです。でも一度優勝するとモチベーションが変わってくるし、勝ち方がわかってくる。それまで優勝を目指して頑張ってきましたが、本当に優勝できたら、連覇に向けてやらなければいけなくなる。それがオールジャパン3連覇、Wリーグ初優勝につながったと思います」

勝つために研鑽を積み、努力を重ね、結果的に勝ったとき、再び同じ結果を得ようとすれば、しなければいけないことがわかる。相手は当然それを上回ろうとするのだから、前年と同じでは勝てない。優勝するためのボトムラインを知り、さらにその上を行く練習を自らに課すことができたからこそ、富士通の黄金期は築かれたのだ。

中川のあとを継いだのは、シャンソン化粧品の3ポイントシューターとして活躍し、アトランタ五輪にも出場した岡里明美だった。彼女と、次のヘッドコーチとなる薮内夏美が率いた5年間は三谷にとって“模索の時期”となった。

「李さん、中川さんは優勝を経験している指導者で年齢も離れていたから、本当に『ヘッドコーチ』という感覚でいられたんです。でもアケさん(岡里)とナツさん(薮内)がヘッドコーチになると年齢がグッと近くなり、力になりたいと思いながらも、どう接すればよいのかわかっていませんでした。若手との橋渡しをしたほうがいいんだろうけど、やり方がわからず模索する中で、一方ではスタメンから外れて、試合に出るためにもがいている状況でもありました。それまでは試合に出て、プレーで引っ張ればよかったのに、チームを違う面から支えなければいけなくなったとき、その術がわからなかったんです」

年齢が近いからこそ話せることもあったのだろうが、当時は選手がどこまでヘッドコーチに近づいていいのかわからなかった。三谷の迷いは、むろんそれだけが原因ではないが、チームが苦境に追い込まれる時期とも重なっていく。2011年のオールジャパンこそ決勝戦まで進むが、それ以外はリーグ戦も含めてベスト4以下の成績に終わるシーズンが続いていった。

◆全ての出会いが「恵まれていた」薮内のあとをうけたBTテーブスの体制下で、三谷はさらなる転換期を迎える。実はその初年度、三谷は戦力外通告を受けている。しかし、まだレッドウェーブでプレーしたいと思っていた三谷は交渉を続け、チームに残留することができた。以降の三谷がシックスマンとしてチームを献身的に支えたことは、読者のみなさんの知るところだろう。

「あのときは、続けられるのなら続けたいと思っていました。それでもダメだったら……移籍してまでプレーしたかどうかはわからないけど、ただ実際、BTのバスケットは楽しかったから、純粋に続けられたんだと思います」

李、中川の下でトップレベルのバスケットの礎を築き、岡里、薮内の時期は苦しみながらも前進することを覚え、BTに出会って、バスケットの楽しさ、奥深さを改めて知った。そして昨年、三谷の現役生活最後の年を小滝道仁・現ヘッドコーチのもとでプレーをすることになった。

「小滝さんとは、アケさん、ナツさんのときの経験を踏まえて、よい関係性を築くことができたと思います。ただ最初は『ついに年下のヘッドコーチのもとでプレーするようになったか……』って思いましたけど」

そう笑う三谷の表情に曇りはない。小滝ヘッドコーチのもとでも三谷は最後まで三谷らしく、朗らかにプレーし、若いメンバーをさまざまな面で支えていった。自身の16年間を「波乱万丈!」と振り返る三谷だが、一方で三谷は富士通に入って「もちろんよかったです!」と口にする。

「苦しいこともあったけど、それらも含めていい思い出というか、それを乗り越えられたから、この年齢まで続けられたし、みんなから『すごい、すごい』って言ってもらえるまでになれたんだと思います」

そしてこう続ける。

「人には恵まれました。6人のヘッドコーチもそうだし、チームメイトもそう。スタッフもそうだし、私にとってはプラスになる人が多かったかな。もちろん反面教師的な人もいましたけど(笑)。それはそれでプラスにはなったし、本当にすべての出会いがよかったと思います」

数々の出会いを財産にして、三谷藍はこの春、レッドウェーブを、そして富士通を去っていった――。

(敬称略。また既婚の方は旧姓で記しました)
次回は三谷藍の「日本代表」での思い出と、ファン、チームメイトへの思い、メッセージを紹介する。