三谷藍インタビュー Part.1 “スター選手ではなかった”からこその努力


思い返せば富士通レッドウェーブがWリーグ屈指の強豪へ突き進む時期と、三谷藍の成長曲線はぴったり合致する。三谷が入社した2001年、レッドウェーブはWⅠリーグ(今はなくなったが、Wリーグの下位に位置する2部リーグ)に属していた。同年チームがWⅠリーグを制し、Wリーグ昇格を決めると、三谷個人はWⅠリーグの新人王を獲得。2005年、三谷が日本代表に初選出されると、チームは翌2006年からオールジャパン3連覇を達成。2007-2008シーズンにはWリーグ制覇も達成している。その後、日本屈指のオールラウンドプレーヤーとして国内のみならず、アジア、世界にも活躍の舞台を広げた三谷は2015年、4年ぶりに代表復帰。アジア選手権制覇にも貢献した。前後して、チームはしばらく遠ざかっていたWリーグファイナルへの扉も開いている。そんなレッドウェーブ一筋16年の三谷藍が2017年春、その競技人生に幕を下ろし、新たな道を歩み始める。

 

◆決して“スター選手ではなかった”からこその努力2017年2月20日、鹿児島県総合体育センター体育館。富士通レッドウェーブはシャンソン化粧品シャンソンVマジックに【55-57】で敗れ、2016-2017シーズンのWリーグをプレーオフ・クォーターファイナルで終えた。三谷藍が引退を決意したのはそのときだったと言う。

「引退の決め手は最後に負けたとき。あの負け方でもちろん悔しかったですが、今までだったら“悔しいからもう1年頑張ろう”と思えていたのが、その気持ちが出てこなかったんです」

思えば16年、ガムシャラに走り続けてきた。専修大学から入社したとき、彼女は決して鳴り物入りだったわけではない。彼女が生まれた1978年は女子バスケット界の“豊作”とも呼ばれる年で、同期入社の船引まゆみや矢野良子、三木聖美、渡邉温子、榊原紀子、石川幸子、林五十美、山田久美子……バスケット界で「花の78年組」と呼ばれる、錚々たる猛者たちがひしめき合っていた。しかし三谷は“そこに入らない選手”だと自認していた。

でも、だからこそ、人一倍努力をした。同期生を打ち負かして、自分が頂点に立とうと思ったわけではない。負けたくないが、まずは目の前に置かれた見たこともない高さのハードルを飛び越えることに、ただ必死だったのだ。

その才能を見出したのが、三谷が入社した年にヘッドコーチに招聘された李玉慈である。三谷が言う。

「入社したときに李さんに出会ったことは、自分にとって大きな宝です。たぶん何年か後に出会っていたら、ここまでリスペクトしていなかったかもしれません。李さんを含めてすべての出会いのタイミングが私にはよかったから、ここまで続けてこられたんだと思います」

禅に「啐啄(そったく)の機」という言葉がある。簡単に言えば、才能を花開こうとする弟子と、それを見抜いて引き上げる師。両者の意識の高まりがあり、そのときに出会ってこそ、すべてがうまくいくという意味だ。まさに三谷と李の出会いは「啐啄の機」である。

三谷は李からバスケットの基礎を改めて教わり、さらに社会人として、報酬をもらいながらプレーする選手の心得、あり方を学んだ。李だけではない。山田かがり、守屋志保、相澤優子といったリーグでも屈指の好プレーヤーたちと交われたことも、その後の三谷の土台を作り上げていった。

◆“黄金期”と“模索”の時期"李ヘッドコーチのあとを受けた中川文一の下で、三谷は日本一を経験する。一度だけではない。オールジャパン3連覇(2006〜2008)と、Wリーグ初制覇(2007-2008シーズン)の計4回、頂点に立ったのだ。三谷を初め、船引かおり・まゆみ姉妹、矢野良子、畑恵里子らがチームの根幹を支えた、まさに富士通レッドウェーブの“黄金期”である。

「オールジャパンで初めて優勝したときは、トーナメントだし、勢いづけて優勝できたことがすごくラッキーだったと思うんです。でも一度優勝するとモチベーションが変わってくるし、勝ち方がわかってくる。それまで優勝を目指して頑張ってきましたが、本当に優勝できたら、連覇に向けてやらなければいけなくなる。それがオールジャパン3連覇、Wリーグ初優勝につながったと思います」

勝つために研鑽を積み、努力を重ね、結果的に勝ったとき、再び同じ結果を得ようとすれば、しなければいけないことがわかる。相手は当然それを上回ろうとするのだから、前年と同じでは勝てない。優勝するためのボトムラインを知り、さらにその上を行く練習を自らに課すことができたからこそ、富士通の黄金期は築かれたのだ。

中川のあとを継いだのは、シャンソン化粧品の3ポイントシューターとして活躍し、アトランタ五輪にも出場した岡里明美だった。彼女と、次のヘッドコーチとなる薮内夏美が率いた5年間は三谷にとって“模索の時期”となった。

「李さん、中川さんは優勝を経験している指導者で年齢も離れていたから、本当に『ヘッドコーチ』という感覚でいられたんです。でもアケさん(岡里)とナツさん(薮内)がヘッドコーチになると年齢がグッと近くなり、力になりたいと思いながらも、どう接すればよいのかわかっていませんでした。若手との橋渡しをしたほうがいいんだろうけど、やり方がわからず模索する中で、一方ではスタメンから外れて、試合に出るためにもがいている状況でもありました。それまでは試合に出て、プレーで引っ張ればよかったのに、チームを違う面から支えなければいけなくなったとき、その術がわからなかったんです」

年齢が近いからこそ話せることもあったのだろうが、当時は選手がどこまでヘッドコーチに近づいていいのかわからなかった。三谷の迷いは、むろんそれだけが原因ではないが、チームが苦境に追い込まれる時期とも重なっていく。2011年のオールジャパンこそ決勝戦まで進むが、それ以外はリーグ戦も含めてベスト4以下の成績に終わるシーズンが続いていった。

◆全ての出会いが「恵まれていた」薮内のあとをうけたBTテーブスの体制下で、三谷はさらなる転換期を迎える。実はその初年度、三谷は戦力外通告を受けている。しかし、まだレッドウェーブでプレーしたいと思っていた三谷は交渉を続け、チームに残留することができた。以降の三谷がシックスマンとしてチームを献身的に支えたことは、読者のみなさんの知るところだろう。

「あのときは、続けられるのなら続けたいと思っていました。それでもダメだったら……移籍してまでプレーしたかどうかはわからないけど、ただ実際、BTのバスケットは楽しかったから、純粋に続けられたんだと思います」

李、中川の下でトップレベルのバスケットの礎を築き、岡里、薮内の時期は苦しみながらも前進することを覚え、BTに出会って、バスケットの楽しさ、奥深さを改めて知った。そして昨年、三谷の現役生活最後の年を小滝道仁・現ヘッドコーチのもとでプレーをすることになった。

「小滝さんとは、アケさん、ナツさんのときの経験を踏まえて、よい関係性を築くことができたと思います。ただ最初は『ついに年下のヘッドコーチのもとでプレーするようになったか……』って思いましたけど」

そう笑う三谷の表情に曇りはない。小滝ヘッドコーチのもとでも三谷は最後まで三谷らしく、朗らかにプレーし、若いメンバーをさまざまな面で支えていった。自身の16年間を「波乱万丈!」と振り返る三谷だが、一方で三谷は富士通に入って「もちろんよかったです!」と口にする。

「苦しいこともあったけど、それらも含めていい思い出というか、それを乗り越えられたから、この年齢まで続けられたし、みんなから『すごい、すごい』って言ってもらえるまでになれたんだと思います」

そしてこう続ける。

「人には恵まれました。6人のヘッドコーチもそうだし、チームメイトもそう。スタッフもそうだし、私にとってはプラスになる人が多かったかな。もちろん反面教師的な人もいましたけど(笑)。それはそれでプラスにはなったし、本当にすべての出会いがよかったと思います」

数々の出会いを財産にして、三谷藍はこの春、レッドウェーブを、そして富士通を去っていった――。

(敬称略。また既婚の方は旧姓で記しました)
次回は三谷藍の「日本代表」での思い出と、ファン、チームメイトへの思い、メッセージを紹介する。